過酷な夏が終わって夏の疲れが残るなか、薄暗い天気とか気圧のせいで、漠然とした不安感とかで何もなくても生きていたくないとか、あー死にてーとかが心に走りまくる季節がやって参りました。
以下の創作論は私が思っているのもありますが、創作している人ならば、だいたいが気が付いていることであり、分かっていることです。
しかし言語化することで、よしやるかという方につながりやすいし、メリットしかないのであえて言語化して書いてみます。
🦭まず創作者が絶対やってはいけないこと
それは過去作の処分
数年後に見てうん、黒歴史!見てられない!といって処分しがちですが、まじでやめた方がいいです。
これはいろんな理由があるんですが、私がやって実際に現在感じているのは、制作後数年は黒歴史になっても、さらに10年、20年経つとまじでまた見たくなります。
しかも、もうその時は過去作のような熱が込もったものは作れなくなっているのです。
黒歴史になるようなものは、かなりまばゆいものです。非常に力が込もった唯一無二の珠玉だからこそ、数年は呪いみたいに我が身を縛る力があるのです。
それがゆえに、10年から20年後にまたそれに触れる機会が持てると、人生が変わったり、今の自分が教えられるようなエネルギーがあると思います。
過去作は特級呪物でもあり、至宝の神器でもあると思って捨てない方がいいです。
さらに作品化まではしていなくても、書きためたキャラのセリフの断片、走り書きのイラストや設定なども、後で役に立つし、
これが重要だと思うんですが、10代、20代の自分が表現したものはその世代でしか分からない感覚であり、それが残っていると、いつかその層をターゲットにした作品を作る際に重要なヒントになると思います。
厨二の時分の表現物は一見過去の遺物で恥ずかしいものみたいに見える場合がありますが、それにしっかり向き合ったあとに現在の10代20代で流行っているものを見たときに絶対に通じるものがあると思います。
嫌だと思っても、もしかしたら極端な話、金につながるかもしれない資料だと思ってしっかり取っておいた方が無難です。
🦭創作者の最高にして最重要、宇宙よりでかくて、真っ先にそれをガン見し、何を押し退けても考えなくてはいけないこと、やらなくてはいけないこと
それは自作のプレイ、愛読
自作キャラ深掘り
ここではゲーム制作者に特化した話になりますが、暗い気持ち、つらいことに出会ったとき、一番の救済になるのは自作品のゲームをプレイすることです。
死にたいとき、泣きそうなとき、もう何度もやったとか、評価が低いとか、やな思い出があるとか、そんなことは捨てて、自作のゲームをプレイしてみて下さい。
私の命をかけて誓ってもいいですが、どんな神ゲー、神作、過去の好きなゲーム、作品より、自分自身の作ったゲーム、作品が一番救いになります。
完成品がなくても創作者はいろんな話やキャラがもうあるはずです。
それはどんな話か、今までの表現物を見ると、その素晴らしさに絶対感動するはずです。
自分自身の創作物の扱いについて、私もそうなのですが、照れがあるというか、大好き!みたいに押し出すのがはばかられる風潮は少なからずあると思います。
でも、私はもっと遠慮なくキャラを深掘りしたり、自分のキャラクターのために犠牲をはらう、お金を使ってキャラを深めるといった、マイキャラ活があっていいと思います。
創作者マイキャラコスパーティーとか開きたい。
それとか、自キャラの聖地探しして旅行したり、ここの特産品はマイキャラ好きそうとか、自キャラ活したりするの楽しいと思います。
あと、キャラクターの深掘りです。
創作者さん自身の作品の中で特に好きなキャラとかいると思いますが、彼は、彼女は、何故そうであったのか、彼らは本当は何を愛していたのか、信じていたのか?それは人だったのか、果たして概念ではないのか?といった、独立した個体として作者さえ見えないキャラの部分を見つめるのも良いと思います。
いろんな人にとって、プロが作ったキャラは一人の個体として、心の中にいたり話したりするのは普通な感じですが、自作キャラはどうでしょうか?
自分の作ったキャラだから存在していない感じがどこかにないでしょうか?
しかし心に存在している魂として自作も公式キャラも区別があるものでしょうか?
本当に自分の背後に控えて無条件に自分を応援してくれている魂として、自キャラが該当から外れることはあるものでしょうか?
この考え方は人によっては妄想と現実の区別がつかなくなる精神病、直球で言うと統合失調症とつながるものと考えることもあるかもしれませんが、
それはそれ、これはこれというか、精神の病というのは苦労して頑張っている人はみんななるかもしれない病気で恥ずかしいことなんか1つもないのよと昔、母から軽々しく言うのを戒められたことがあります。
他人がどう言うとか、みんなはこうだよなとかはかなり大事ですが、自分の心の一部分くらいは自由気ままに少しだけ変わっていても全然いい気がします。
あと、これは少し発見したのですが、ゲーム制作の特にストーリーゲームって音楽を自分でつけるじゃないですか。
キャラクターに関して、姿はイラストで表現され、想いは言葉や文字になります。
最近になって、私はキャラクターの魂は音楽によって顕されてるんじゃないかと思いました。
たくさん音楽があるなかで、その曲がいいからこのシーンはこの曲に、というのが多いかもしれませんが、それが合うというのはかなり運命というか、まさにキャラやシーンに込められた作者さえ見えない魂を表してるように思うんですよ。
昔、仏像を彫る仏師は一刀三礼と言って彫刻刀1彫のたびに三回仏に礼拝して仏像を彫って入魂したそうです。
今、創作することにおいてもキャラを動かすためにどれほど学んで、彼らが生きる世界を飾る、彼らを輝かせるためにどれほど創作者は自分を犠牲にするでしょうか。
楽しさだけでは出来ないこともたくさんあるはずです。
自分自身の作った作品というは自分の一番の救いで、キャラは一番の味方だと思います。
ゲーム制作者はちょくちょく自作のゲームをプレイしようという長い話でした。
マニアックな話にお付き合い頂きありがとうございました。