※この物語はフィクションです。この物語に登場する人物、地名、組織名等は現実のものとは一切関係ありません。
空を移ろう桜の花弁が、出会いと別れの季節を告げる三月の中旬。
日本のどこかに位置する「梶宮(かじみや)市」も例に洩れず、春が訪れていた。一足先に咲き誇っていた梅の木にはメジロが留まり、紋白蝶がひらひらと舞う。
そんな町中にある二階建ての住宅では、一階の物置部屋を歩き回る男の子の姿があった。もうすぐ小学校に通えるという興奮と好奇心に身を任せ、少し埃かぶった室内を探検している。
「うーん、なんもない……」
古い段ボール箱から顔を覗かせる雑貨類や眠ったままの健康器具など、普段見かけないものではあるのは確かだが、どれも彼の興味を引くものではない。
期待外れか、と諦めて部屋を後にしようとした時である。
「……あっ! なんかみっけ!」
ふと彼の視界に入ったのは、一つの木箱であった。扉で死角になっていたためか、普段なら見落としてしまう位置に置かれている。
サイズは絵本よりも一回り大きいが、見た目ほど重くはなかった。
(なんだろう? もしかして、おたから?!)
やっと自分の期待に応えてくれる代物を見つけた男の子は、ワクワクしつつも慎重に木箱を床へと置き、ゆっくりと上蓋を開けた。
「友樹(ともき)、そんなところで何しているの?」
中身を確かめようとしたタイミングで、不意に背後から声をかけられる。
「ひやぁっ!?」
友樹と呼ばれた男の子は驚きのあまり、甲高い悲鳴を一つ上げる。
振り返ると、そこには彼の姉である七海(ななみ)の姿があった。さらりと揺れるセミロングの黒髪に桜色の澄んだ瞳が特徴的で、今は黒いセーラー服に身を包んでいる。左肩から高校の鞄を下げていることから、学校から帰ってきたばかりであることが窺える。
「ね、ねぇちゃん! もぅ、おどろかせないでよ……」
「あら、ごめんね。それよりも、何してたの?」
「うん、こんなのをみつけたんだけど……」
そう言って友樹は木箱の中身を七海にも見せた。
七海が姿勢を低くして確認すると、箱の中には一冊の古い本が入っていた。和紙を藍で染めた表紙の一部には扇状に重なり合った文様、青海波が描かれており、背が糸で綴じられているのが特徴的である。
「これ……和綴じ本だ」
「わとじ、ぼん?」
初めて耳にする難しい単語に、友樹は首を傾げる。
「昔からある本の作り方の一つだよ。友樹の持っている絵本とかと違って、これは糸で綴じてあるの」
「ほんとだ! ねえちゃん、ものしり!」
「ふふ、ありがと。それにしても……どうしてこんなに古いものが家にあるんだろう?」
七海も首を傾げつつ、本を箱から取り出した。手に取ると、和紙の柔らかく触り心地のよい質感が指越しに伝わる。裏返すと、表紙の左側上方に一枚の題簽(だいせん:書物の名を書いて表紙にはる紙)が貼られている。
(なるほど、こっちが表か)
今度は中を確かめようと慎重にページを捲ると、そこには古い筆文字が書き綴られている。高校の授業でも古文は苦手というわけではないが、最初の一行を解読しようとしたところで、そっと閉じた。
「ごめん、私でも読むのは無理そう」
「ねえちゃんでもダメか……そうだ!」
友樹はそう言うと勢いよく立ち上がり、一足先にその場を後にした。
「ばあちゃんなら、なにかわかるかも!」
「あっ、ちょっと! もう、友樹ったら……」
後に続こうとした七海であったが、ふと手にしていた和綴じの本に違和感を覚える。
その正体は表紙の題簽にあった。
「この本……題名がない?」
「ばあちゃ~ん! ねえちゃんも、はやく!!」
「友樹! 走ったら危ないでしょ!!」
姉弟二人は、同じく一階にある祖母のもとへと訪れた。
部屋は広さ八畳ほどの和室で、くれ縁(室内にある縁側)があるのが特徴的である。
そして祖母は畳の上に置かれた座敷椅子に腰掛け、時折お茶を啜りながら静かに外を眺めていた。
「あらあら、友くん。七ちゃんもおかえり」
二人の存在に気づいた祖母がゆっくりと顔を向け、優しく微笑む。
「おばあちゃん、ただいま。ちょっと聞きたいことがあるんだけど、いいかな?」
「あら、なにかしら?」
「これ、さっき物置で見つけたんだけど……」
そう言って七海は、先ほどの和綴じ本を祖母に見せた。
まじまじと見つめる祖母であったが、やがて大きく目を見開き、
「あらぁ……! まぁ、懐かしいわね……!」
と相好を崩しながら嘆声をもらした。
七海から本を受け取ると、懐かしそうに表紙をそっと撫でる。中を開き、時折うなずきながら読み進める祖母の表情からは、とても穏やかで喜びに満ちていることがわかる。
「そう……あれから随分経つのねぇ……」
読み終えて本を静かに閉じながら、祖母は小さく呟く。
「ねぇそのほん、ばあちゃんの?」
友樹が覗き込むと、今度は彼の茶色がかった短い黒髪を優しく撫でながら答えた。
「ええ、そうよ……といっても正確には、おばあちゃんのじゃないけどね」
「えっ? ということは、亡くなったおじいちゃんの?」
七海の問いに、今度は首を横に振る。
「おばあちゃんとおじいちゃんのお友達のよ。零さんっていう、物書きの人が残したものなの……」
「ぜろ、さん?」
「えぇ、零さんはね……」
七海と友樹はそこからしばらく、思い出話に花を咲かせる祖母の相手をすることとなった。
本名は知らないが、その物書きが「零さん」と呼ばれて皆から親しまれていたこと。
祖母が二十歳を迎える頃に、今は亡き祖父を通して知り合ったこと。
また他にも、外見の特徴やいつも作務衣を身にまとっていたことなど、気づけば一時間近くが経とうとしていた。
途中で眠ってしまった友樹の頭を膝に乗せながら相手し続けていた七海も、そろそろ自室に戻りたいと話に飽きかけていた時であった。
「でも零さんね……ある日突然、消えちゃったの」
祖母のその言葉に、七海の興味が引き戻される。
「き、消えた……?」
「皆で町中をさがしたけど、結局行方不明のままでね。一部では神隠しに遭ったんじゃないかって騒がれたりもしたわ……」
やがて祖母はゆっくりと立ち上がり、夕日に染まり始めた空を見つめる。そして次のように静かに呟いた。
「もし、零さんが生きていたら……今頃どうしているのかしらね……」
先ほどと打って変わり、祖母の瞳はどこか寂しそうである。七海の頭から、その様子がしばらく離れなかった。
翌日。
午前中の授業で下校となった七海は、一人で商店街を歩いていた。
高校一年の期末テストの結果も良好で、来週には春休みが待っている。
生憎今日は友人たちも補習やバイト等で忙しい。折角の金曜日であったが、仕方なく七海は母から頼まれた日用品の買い物ついでに、どこかで食事をしようと考えていた。
(流石にこの時間だと人が多いな。買い物はお昼ご飯を済ませた後で良いし……)
腕時計に目を向けると、針は午後零時半前を指している。目につく食事処には、まだ人々が列をなしていた。
(並ぶのも時間がもったいないし、ちょっと寄り道してみようかな?)
考えを巡らせていた七海は、くるりと踵を返した。
商店街を後にしてから五分近く歩いていくと、桜並木が広がる川沿いへと辿り着く。ここは梶宮市の中でも桜が綺麗なスポットのひとつであり、七海の密かなお気に入りの場所でもある。
(今年も綺麗に咲いている……)
そのまま歩き続け、目についた桜の木に向かった。木を背にして軽く腰掛け、周囲の景色を見渡す。川の向こう岸にも咲く桜の花弁がひらひらと散り、目の前を流れる川へと落ちていく。目を閉じれば鳥の鳴き声や川のせせらぎが耳へと流れ、自然と心が癒される。
程なくして七海の頭に、ふとひとつの疑問が浮かんだ。
「そういえば、川沿いって桜の木が多い気がする。お花見しやすいからかな?」
七海の口から、浮かんだ疑問が自然と漏れる。
しかし今のこの場所で、言葉を返してくれる人はいない。このまま川の流れのように頭から消えていくだろう。
そう思っていた時であった。
「いいところに気が付きましたね、実は災害対策のためです」
「えっ?」
不意に男性の声が聞こえる。
七海は驚きのあまりきょろきょろと周囲を見渡すが、目の前に人の姿は見当たらない。
(もしかして、この木のうしろ……?)
そう考え、声の主を探そうと振り返った。
「続き、聞いてみたいですか?」
同時に、再び男性の声が聞こえる。
やはり七海に対して話しかけているようだ。
「あっ、えっと……お、お願いします」
振り返った体勢のまま、七海は桜の木越しに返答した。
それを聞いた声の主は話を続けた。
「江戸時代の頃は、大雨が降ると川が氾濫することがしばしばありました。そこで八代将軍である徳川吉宗の時代から、土手に桜を植え始めたのです」
「え、江戸時代!そんなに昔から……」
「そしてその狙いは、毎年多くの人が花見に訪れることで、自然と土手が踏み固められること。結果として増水に耐えられる土壌が出来上がり、土手の決壊を防いだということです」
「はぁ、なるほど……!」
「以上になります。いかがでしたか?」
「すごく勉強になりました! ありがとうございます!」
思わず七海は感心していた。
疑問も消え去り、代わりに残ったのは知識と芽生えた関心である。
「ふふ、それなら良かったです。しかし、先人たちの知恵にはつくづく感心させられます」
「本当ですね! 教えていただいてありがとうございます!」
「いえいえ、これでも物書きの端くれなもので」
「おお、物書きさん……えっ?!」
物書き。
その単語に突き動かされたように彼女は立ち上がり、急いで木の裏へと回った。
「っ……!?」
やがて先ほどの声の主と対面し、七海は思わず息を呑んだ。
ふんわりとした黒茶色のマッシュヘア、その右側の前髪の淡い黄色のメッシュが目を引く。服装も紺色の作務衣を綺麗に着こなし、墨色の革靴に似たものを履いている。眼鏡越しに山吹色の瞳が彼女の姿を捉えると、男性は優しく微笑んだ。
「こんにちは、先ほどはどうも」
そこには昨日の祖母の話で聞いた、「零」と呼ばれた人物の外見的特徴と、ほぼ一致した男性の姿があった。
「え、えっと……」
その時、一陣のやわらかな風が二人の間を通り抜ける。
「おっと、申し遅れました。僕の名前は零之介。和井零之介と申します」
――これは始まりの物語。
三月は別れの季節でもあれば、出会いの季節でもある。
偶然ともいうべきこの物書きとの出会いこそ、新堂七海にとっての新たな物語の始まりであった。
【第二話】
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