『和ノ風 ~この街には物書きが住んでいる~ 』 第二話「導き」

 そよ風が春の薫りを運ぶ中、七海の時間だけがしばらく止まった。
 零之介と名乗る目の前の男性は、ただ静かに七海を見つめている。その表情は穏やかなもので、七海の様子を窺っているようだ。

「……あっ、すみません! 私は七海。新堂七海です!」

 ハッと我に返った七海が、慌てて自身の名を名乗る。

「なるほど、七海さん……うん、とても素敵なお名前ですね」
「あ、ありがとうございます……えっと、和井さん? 零之介さん?」
「『零』でも良いですよ。他の方からもそう呼ばれていますので」

 呼び慣れない様子の七海に対し、零之介が声をかける。

(零……そんな偶然って、あるのかな?)

「それなら……零さんは、ここで何を?」
「ちょっとした寄り道ですよ。外で何か食べようと思いまして、商店街の方へ向かっていました。その途中で、ここの景色に惹かれましてね」

 そう言って零之介は、桜の方に顔を向けた。

「あまりにも綺麗だったもので、桜でも眺めながら一筆認めていただけです」

 零之介の手には、筆らしきものと一冊の本が握られている。よく見るとその本は、鮮やかな緑色の紐で綴じられていた。
 自宅で発見した和綴じの本に似ている、そう感じた七海が口を開いた。

「あ、あの……!」

 その時。

ぐぅうううぅ……

 突如、この場に似つかわしくない異音が七海の言葉を遮る。音の主は、七海のお腹からのようだ。
 両手でお腹を押さえると、少し恥ずかしそうに七海は笑った。

「そういえば私も、お昼ごはんがまだでした……あはは」

 一部始終を見ていた零之介も、口元を緩めた。

「七海さん、美味しいうどん屋に興味はありますか?」

 *

 時刻は午後一時を過ぎた頃。
 零之介の案内で、七海は商店街の一角にある「うどん・そば屋 山彦」にて昼食を摂ることになった。
 注文の品を待つ間、七海は店内を軽く見渡す。
 木を基調とした少し広めの店内は清潔感がありつつも、どこか懐かしさを感じるような雰囲気を醸し出している。テーブル席には二組の客が座っており、穏やかな表情で食事を楽しんでいた。

「はい、お待ちどお!」

 程なくして、店主と思しき気の良さそうな中年男性が、木製の脇取盆(一度に数個の椀や皿を運ぶ、給仕用の盆)に乗せた料理を運んできた。
 同時に出汁の上品な香りが漂い、鼻腔をくすぐる。
 七海の前には「海老天うどん」と「いなり寿司」、零之介は「きつねうどん」と「味噌おにぎり」が並べられた。

「ありがとうございます、大将」
「こっちこそ! いつも寄ってくれてありがとね、零くん!」

 大将と呼ばれた男性は、嬉しそうに零之介と言葉を交わした。
 傍から見ている七海も、
 
(きっと大将さんの人柄も相まって、お客さんたちに愛されているお店なんだろうなぁ)

と心の中で呟いた。
 
「それにしても……」

 大将がちらりと七海の方を見る。

「まさか零くんが、女の子を連れてくるとは思わなかったよ!」
「あはは、先ほど知り合った方ですよ。折角なので、大将の店にも寄りたかったですし」
「かーっ、嬉しいこと言ってくれるね! おっと、つい話し込んじゃった。お嬢ちゃんも、温かいうちにどうぞ!」
「あ、ありがとうございます」

 笑顔で厨房に戻る大将を見送ると、二人は向き直って合掌した。

「「いただきます」」

 声を揃えた後、七海は箸を手に取った。
 ほんのりと湯気の立つうどんを一口啜ると、柔らかな麺の食感と出汁の香りが口いっぱいに広がる。
 自然と七海の頬が緩んだ。

「あっ、おいしい……!」

 続いてそのまま、海老の天ぷらにかぶりつく。
 サクサクとした衣に、ぷりっとした海老の食感が合わさり、「幸せ」という文字がそのまま表情へと滲み出ていた。

「気に入っていただけましたか?」
「はい! うどんも天ぷらも、すごく美味しいです!!」
「それは良かったです。麺やお出汁は勿論、おにぎりやトッピングの品まで、大将の仕事は丁寧ですからね」

 零之介は小さく微笑みながら、甘辛く味付けられた大きな油揚げにかぶりついた。 



 食事を楽しんだ二人は、大将が持ってきた急須で緑茶のおかわりを貰いながら、しばらく寛いでいた。

「そういえば、七海さん。先ほど僕に何か言おうとしていませんでしたか?」
「実は、零さんの持っていた本が気になったので……良かったら、見せもらえませんか?」
「なるほど。確かに、この本は現代では珍しいですからね。構いませんよ」

 そう言って零之介は斜めがけの鞄のように結ばれた風呂敷から、一冊の本を取り出した。
 先ほど目にした、鮮やかな緑色の紐で綴じられた「和綴じ本」であった。
 大きめの手帳ほどのサイズで、朱色の表紙に白い麻の葉文様が入っている。

(大きさや色とかは違うけど、家にあったものと似ている……)

 ページを何枚か捲ると、そこには文献で調べたと思しき情報や小説のものらしき一文など、様々な文章が綺麗にまとめれている。
 表紙の題簽には『備忘録 壱 和井零之介』と筆で書かれていた。

「備忘録?」
「いわゆる、覚え書きやメモのようなものと思ってください。小説の執筆や依頼などに使えそうな知識や情報を書き留めているだけですよ」
「なるほど……えっ、依頼?」
「小説以外にも依頼を受けて記事や文章を作成したり、時には悩み事の相談にも乗ったりしているんですよ」
「へぇ、面白い! 物書きさんって、色々されているんですね」
「いえいえ、僕はただ自分のやりたいことをやっているだけですよ」

 零之介のその言葉を聞いた七海は、

「やりたいこと、か……」

とぽつりと呟き、湯呑に残ったお茶に視線を落とした。



「……さて、そろそろ行きましょうか。ここは僕が支払います」
「えっ、いいんですか?!」
「勿論です。楽しい食事の一時に付き合ってくださった、お礼だと思ってください」
「そういうことでしたら、お言葉に甘えて。ご馳走になります!」

 零之介は小さく頷くとレジへ向かい、会計を済ませる。大将と軽く会話を交わすと、店を後にした。

「大将さん、うどんもいなり寿司も美味しかったです。また来ます!」

 後に続くように七海も追いかけようとする。

「あっ、お嬢ちゃん!」

 不意に大将から呼び止められ、七海は足を止めた。

「大将さん?」
「こんなこと言うと、お節介になるかもしれねぇけど……」

 そう言って優しく微笑み、話を続けた。

「もし何かあったら、零くんに相談してみるといいよ。あの物書きさんは、きっと力になってくれるから!」
「……はい!」

 七海も笑みを返し、店を後にした。

「お待たせしました。零さん、ありがとうございました!」
「いえいえ、喜んでもらえて嬉しい限りです」
「あの……零さん。この後って、まだお時間ありますか?」
「ええ、大丈夫ですよ。書き物の時以外は、基本的に暇していますので」
「でしたら、もう少し付き合ってもらっても大丈夫ですか? 今度は、私のお気に入りの場所を案内します!」

「おお……これはこれは……」

 七海の案内で向かった場所は、小さな高台である。
 昼下がりの商店街を後にしてから十五分程歩き、古いコンクリート製の階段を登った先には、街並みを一望できる景色が広がっていた。

「零さん、来るのは初めてですか?」
「えぇ。高台の存在は耳にはしていましたが、いつも行かずじまいでしたのでね」
「ここ……小学生の頃、よく遊んでいた場所なんです。学校が終わってから、ランドセルを背負ったまま友だちと集まって、夕方まで遊んで……」

 七海は街並みを眺めつつ、金属製の柵に手をかけながら、ぽつぽつと話し始めた。
 以前は設置されていた遊具も今は撤去され、小さな広場だけになってしまったこと。
 晴れた夜には星がよく見える場所であること。
 それ以外にも懐かしむように語っていたが、

「あの頃は、何にも悩みなんて無かったのになぁ……」

と最後に小さく呟いた。

「……あっ、ごめんなさい。一方的に話しちゃいましたね」
「お気になさらず。それよりも」

 零之介も歩を進め、七海の横に並んで柵に左手をかける。

「僕で良ければ、悩み事を聞きますよ? おそらく、大将からも勧められたのでしょう」
「……全部、お見通しでしたか」

 そう言って七海は視線を街並みに向けたまま、少し時間を置いてから口を開いた。

「……私、やりたいことが見つからないんです」
「やりたいことが、見つからない?」

 七海は静かにうなずき、ゆっくりと話を続けた。

「将来やりたいこととか、夢とかが決まらなくて……来年には高校三年生になるので、進路のことも本格的に考えなきゃいけないですし。何より……」
「何より?」
「このままだと『私って、何のために存在するんだろう?』っていう疑問を抱えたまま、おばあちゃんになっちゃいそうな気がしたんです……」
「……」
「初めて出会った人に、こんなことを聞くのも変な話ですが……零さん、私どうすれば良いでしょうか……?」

 少し震えた声で絞り出すように言葉にした七海は、隣にいる零之介へと顔を向けた。
 普段は笑顔が素敵、と知り合いたちから定評のある七海の表情は、静かな悲しみと絶望、そして未来への不安といった感情が入り混じっている。

「なるほど……」

 ひと言、零之介が呟いたあとに静寂が訪れる。
 その間も高台にはまだ少し冷たい風が流れ、七海と零之介の髪を時折揺らした。
 
「……七海さん」

 しばらく考え込んでいた様子であった零之介が、先に沈黙を破る。

「は、はい!」
「勇気を出して、話してくれてありがとうございます。あなたのお気持ちと胸の内に抱えた不安、きちんと伝わりました」
「えっ……ほ、本当ですか?」

 七海の問いに対して、零之介は小さく頷く。

「そもそも、七海さんの年齢に限らず、『やりたいことがない』という悩みは中々辛いものだと思います。特に今の世には、それが見つからないまま人生を終える人たちが、あまりにも多すぎる気がします」
「そ、そんな……」
「だからこそ、そこに気づけた七海さんの着眼点は本当に素晴らしいものです。僕個人としても、七海さんにはそうなってほしくないですからね」
「零さん……」
「ですが、先に断っておきます。僕はその手の専門家ではありませんし、あくまで物書きです」
「はい……」
「それに、最終的に見つけて決断するのは、七海さんご自身です。僕ができるのはあくまでサポートですからね。それらを踏まえた上で、ご理解いただけたのなら……」

 そう言って零之介は七海の方に向き直り、右手を差し伸べた。

「是非、一緒に探しましょう。七海さんの『やりたいこと』を見つけに……」

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