SHA 2018/08/01 06:02

赤松貞明 零戦1機で75機の敵機に突っ込む






赤松貞明(あかまつ さだあき)



1910年7月30日 - 1980年2月22日


「松ちゃん」のあだ名をもつ海軍のパイロット。



赤松さんはお酒が好きで、豪快な性格で有名だよ。



よく外出しては、酔って暴れて上司が引き取りに行った。



他にも、後輩の結婚式会場に全裸で乱入したかと思えば、そのまま歌って踊る!



すると、若い後輩教員たちも歌いだす!



結果、親族の皆さんに怒られるのでした!




1 チームプレイの大切さ
1937
12月――



赤松さんは、日中戦争中の上海で編成された「第十三航空隊」に配属される。



徐々に撃墜数を伸ばしたが、優勢な敵機群に11の単機空戦で挑んでしまう。



その結果、自分の指揮官が撃墜されてしまう。



これ以来、赤松さんは「編隊空戦の訓練の必要性」を痛感した。
部下に対しても「米軍機への深追いを強く戒め、
強がって敵編隊の先頭にかかることなく、端の弱い奴から叩いていく」ように強調していたよ。



・カナダ「なるほど…苦い失敗を経てチームプレイの大切さを学んだわけだね。」



・日本「…っと思うじゃん?」




2 75対1



1945529日。



横浜市が「B-29爆撃機」の 500機編隊による大空襲をうけた。



同じ日、横浜市街上空に「P-51ムスタング戦闘機」75機の大編隊がやって来た。



その75機に…赤松さんはなんと「零戦1機」で空戦を挑んだ。



そして彼は1機を確実に撃墜して包囲網を破り、無事飛行場に帰還ッッ。



・カナダ「チームプレイはどうした!?



・日本「これが赤松さんのチームプレイです!」



・イギリス「さすがに正面から突っ込んだわけじゃないだろ?上から奇襲みたいな感じで…」





・日本「そうですね…詳細は分かりませんが…恐らく、奇襲的な感じだと思います。」






撃墜数は本人の自伝では「350機ほど」と語っているが、
実際には「単独で27機」だとされている。





戦後は、海軍時代の友人と金を出し合って購入した小型機に乗って飛び、
漁業組合の仕事などをしていた。




・アメリカ「皆は敵機の大編隊に挑むときは、ちゃんとチームで挑もうね☆

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