赤松貞明 零戦1機で75機の敵機に突っ込む
赤松貞明(あかまつ さだあき)
1910年7月30日 - 1980年2月22日
「松ちゃん」のあだ名をもつ海軍のパイロット。
赤松さんはお酒が好きで、豪快な性格で有名だよ。
よく外出しては、酔って暴れて上司が引き取りに行った。
他にも、後輩の結婚式会場に全裸で乱入したかと思えば、そのまま歌って踊る!
すると、若い後輩教員たちも歌いだす!
結果、親族の皆さんに怒られるのでした!
1 チームプレイの大切さ
1937年12月――
赤松さんは、日中戦争中の上海で編成された「第十三航空隊」に配属される。
徐々に撃墜数を伸ばしたが、優勢な敵機群に1対1の単機空戦で挑んでしまう。
その結果、自分の指揮官が撃墜されてしまう。
これ以来、赤松さんは「編隊空戦の訓練の必要性」を痛感した。
部下に対しても「米軍機への深追いを強く戒め、強がって敵編隊の先頭にかかることなく、端の弱い奴から叩いていく」ように強調していたよ。
・カナダ「なるほど…苦い失敗を経てチームプレイの大切さを学んだわけだね。」
・日本「…っと思うじゃん?」
2 75対1
1945年5月29日。
横浜市が「B-29爆撃機」の 500機編隊による大空襲をうけた。
同じ日、横浜市街上空に「P-51ムスタング戦闘機」75機の大編隊がやって来た。
その75機に…赤松さんはなんと「零戦1機」で空戦を挑んだ。
そして彼は1機を確実に撃墜して包囲網を破り、無事飛行場に帰還ッッ。
・カナダ「チームプレイはどうした!?」
・日本「これが赤松さんのチームプレイです!」
・イギリス「さすがに正面から突っ込んだわけじゃないだろ?上から奇襲みたいな感じで…」
・日本「そうですね…詳細は分かりませんが…恐らく、奇襲的な感じだと思います。」
撃墜数は本人の自伝では「350機ほど」と語っているが、
実際には「単独で27機」だとされている。
戦後は、海軍時代の友人と金を出し合って購入した小型機に乗って飛び、
漁業組合の仕事などをしていた。
・アメリカ「皆は敵機の大編隊に挑むときは、ちゃんとチームで挑もうね☆」
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