SHA 2020/04/10 23:02

戦艦大和・最後の艦長「有賀幸作」

有賀幸作

「有賀幸作(あるが こうさく)」は、「戦艦大和」最後の艦長として有名。
彼は長野県の朝日村、今の辰野町に金物商・村長「有賀作太郎」の長男として生まれた。
父の作太郎は、日露戦争の旅順攻囲戦に参加しており、二〇三高地戦で殊勲をあげ、功六級金鵄勲章と多額の年金を授かっていた。
そんな父だが、息子の軍人志願には反対だった。
しかし…父の思いとは裏腹に、有賀幸作は海軍兵学校に入り、1917年11月24日に卒業。
同期には、大和の艦長を務めた後に第2艦隊参謀長となる「森下信衛」、「大和」最後の戦いとなる「坊の岬沖海戦」で、第二水雷戦隊司令官を務めた「古村啓蔵」などがいる。

実家の平野屋金物店は、有賀の相続放棄後、弟の次郎が継ぐはずであったが…父、弟の次郎、三男の正次、妹のふさへが相次いで病死。
そのため、名義上は有賀が家督を継ぎ、金物店店主となっていたが、実際は母親が一人で切り盛りしており、大和沈没時期には閉店していた。

そんな有賀は「初代神風型駆逐艦・水無月」から経歴をスタートさせ、水雷戦隊の指揮官として経験を重ねる。
1922年には、「戦艦・長門」の四番砲台長に任命されたが、規則のうるさい戦艦勤務に戸惑うこともあったそうな…

軍人としての覚悟

1924年1月27日…宮坂好子と結婚、10月に長男の正幸が誕生。
有賀は家族思いの人物であり、帰宅すると女中にまで土産を配った。
さらに、有名料理店や遊園地、観光地を巡るなど、家族団欒につとめていた。
一方で、潜水艦事故で沈んだ第六潜水艇と「艇長の佐久間勉」の遺書を見学した時には、息子に軍人としての覚悟を語った…という。

完全に余談になっちゃうが…「佐久間勉」は海軍軍人で、第六潜水艇隊の艇長だった。
1910年4月15日、第六潜水艇が訓練中に事故が発生…乗組員14名全員が殉職。
殉職した乗組員は、ほぼ全員が自身の持ち場を離れず死亡しており、持ち場以外にいた乗組員も、潜水艇の修繕に全力を尽くしていた。
佐久間自身は、艇内にガスが充満して死期が迫る中…遺書を書いた。
内容は、明治天皇に対する潜水艇の喪失と部下の死の謝罪、事故が潜水艇発展の妨げにならないことの願い、事故原因の分析を記した。

この、佐久間が記した遺書は、39ページにも及ぶ長いものだった。
沈没した潜水艇が引き上げられた後に発表された佐久間の遺書は、当時の国内外で大きな反響を呼んだ。
その佐久間が亡くなった「第六潜水艇」を有賀が見学し…その時に感じた軍人としての覚悟を、息子に語った。
そして…後に有賀も、佐久間とは少し違うが…艦長として大和と運命を共にすることになる。

水虫

1938年12月、有賀は掃海艇6隻からなる第一掃海隊司令に任命され、日中戦争に加わった。
掃海任務だけでなく、上陸支援や中国軍掃討任務もこなしたため、中国側から懸賞金をかけられ、その値段が徐々に上がっていったという一幕もある。
1941年6月18日には、第四駆逐隊司令に任ぜられ、最新の「陽炎型駆逐艦4隻(嵐、萩風、野分、舞風)」を指揮下においた。
その後…有賀は遺書を書いた…この遺書を、妻の好子が読むのは、1945年9月20日に、有賀の戦死内報が届いた時とされる。

太平洋戦争緒戦では、第四駆逐隊司令として「近藤信竹」海軍中将指揮する南遣艦隊に所属し、「マレー作戦」を支援。
マレー作戦とは、日本軍が実施した、南方作戦内のイギリス領マレー方面の作戦。
1941年12月8日朝、「駆逐艦・野分」に命じてノルウェー船を拿捕。
日本軍のシンガポール占領の後、ジャワ海に進出。
3月1日、有賀指揮下の「駆逐艦・嵐と野分」は、商船3隻(4000t、3000t、3000t)、油槽船2隻(1500t)を撃沈し、商船ビントエーハン号(1000t)を拿捕。

さらにイギリスの「駆逐艦ストロングホールド」、アメリカの「砲艦アッシュビル」を沈めた。
インドネシアのジャワ攻略戦の際、「駆逐艦・嵐」が、逃走する駆逐艦ストロングホールドを追撃。
距離10kmで、嵐の砲術長と水雷長が「撃たせてくれ」と懇願。
しかし…有賀は指揮所で「足が痒くてかなわん。薬を塗ってくれ」と衛生兵に水虫の治療をさせ、発砲を許さなかった。
距離6000mになってから、大声で射撃を命じ、駆逐艦ストロングホールドを撃沈した。

有賀は極度の水虫にかかっており、艦内でも草履を履いていた。
見事なハゲ頭の上に、ヘビースモーカーだったため、部下から「エントツ男」というあだ名もつけられていた。

戦上手

3月4日には、「重巡洋艦・愛宕」と共同で「オーストラリア護衛艦ヤーライ」と、油槽船1隻を撃沈し、「オランダ商船チャーシローア」を拿捕。
有賀は、机上の理論より、実戦での経験を大切にする…当時としては数少ない軍人の1人であった。
さらに…第四駆逐隊で有賀の部下だった者は、戦後の戦友会で「戦があれほど上手い人はいなかった」「困った顔を見たことがない。安心できた」「部下を可愛がり、怒ったことはなかった」など、戦争が終わってからも高く評価されている。

元「重巡洋艦・鳥海」高射長は、忍耐力と決断力がある点で、キスカ島撤退作戦で有名な「木村昌福少将」と似ていると評した。
また、有賀があまりにも前線に出るため、心配した連合艦隊司令長官「山本五十六」が「有賀を殺すな」と言ったという。

教頭は嫌だ

そんな戦上手と言われる有賀は、ミッドウェー海戦に参加。
ミッドウェー海戦では、大破炎上した「空母・赤城」を指揮下の「駆逐艦・野分、嵐」の魚雷によって、沈没処分するという悲劇を味わった。
有賀は「初めて撃った魚雷が赤城に対するものだった」ことを嘆き続けたという。

1943年3月1日、「重巡洋艦・鳥海」の艦長となり、南方に進出。
アメリカ軍機から10回近く襲撃されたが、高射砲長との息のあった連携で鳥海は被弾しなかった。
1944年4月21日、デング熱にかかり、日本へ帰還。
帰国後は、横須賀の水雷学校で教頭をしていた。
しかし、実戦畑を歩いてきた有賀にとっては…机上の学問を教える教頭の職は、本意ではなかったとされる。

「大和」艦長

1944年11月6日、遂に…戦艦「大和」の第5代の艦長を命じられた。
これは有賀にとって、久しぶりの海上勤務である上に、帝国海軍の象徴とも言える「大和の艦長」になったことは、非常に嬉しい事だった。
この事を、彼は長男の正幸宛に手紙で送った。
戦艦大和は、秘匿艦であり…本来ならば「ウ五五六」と暗号で記述するべきだったにも関わらず、手紙で「大和艦長 有賀幸作」と堂々と艦名を書いていた。
さらに、手紙には『大和艦長拝命す。死に場所を得て男子の本懐これに勝るものなし』と書いてあり、これを読んだ息子・正幸は、有賀が死を覚悟したことを悟ったという。

その戦艦大和において、有賀の豪放磊落な性格は、大和乗組員に好意を持って受け入れられたという。
連日の訓練で常に先頭に立ち、防寒コートも手袋着用せずに艦橋に立つ有賀の姿は、畏敬の念で見られた。
一方で、海軍兵学校同期生の古村啓蔵は、有賀が「燃料不足で主砲の訓練さえできない」と弱音を吐くのを見て驚いたという。

最期の戦いへ

1945年…戦艦大和の海上特攻を含む「天号作戦」が開始される。
その際…大和やその他の艦に乗艦していた傷病者と古参兵、兵学校卒業直後の少尉候補生計53名が、第二艦隊司令長官「伊藤整一」中将の命令により、退艦命令が出される。
しかし『戦艦大和の主』を自称していた第二主砲砲塔長・奥田少佐は、これを激しく拒否。
奥田少佐は「大和が死にに行くのなら、ワシが付いて行って最後を見てやらねばならぬ」と激怒し、艦橋に居た有賀の所に怒鳴り込んで行った。

有賀は、怒り狂う奥田少佐に対し…明治天皇の陸海軍への言葉・詔勅「軍人勅諭」を例に出しながら説得。
有賀の説得に、奥田少佐も折れ…退艦命令を受け入れる。
この時…有賀・奥田両名は涙を流し、その姿に艦橋に居た将校・兵士も思わずもらい泣きをしたという。

4月7日…沖縄へ海上特攻隊として向かった大和の部隊と、アメリカ空母艦載機部隊の間で「坊ノ岬沖海戦」が発生。
300機以上の艦載機の攻撃を受け、大和は撃沈。
艦長の有賀も、沈没した大和と運命を共にした。
彼の最期は、諸説あるが…「大和の対空指揮所にあった羅針儀にしがみ付き、そのまま沈んだ」…とする説が有力になっている。
墓所は、有賀の故郷である長野県辰野町見宗寺。
近くの法性神社には、「戦う大和と有賀艦長の肖像レリーフ」で飾られた自然石の記念碑が建立されている。




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