SHA 2020/04/01 14:52

自分、あきつ丸であります。 艦隊にお世話になります。

上陸戦はいいぞぉ・・・

1920年代…日本陸軍は「上陸戦」に関心を示していた。
その理由は…島国である日本の地理的条件、ガリポリ上陸作戦などの第一次世界大戦の戦訓、在フィリピンのアメリカを仮想敵国とする方針から…である。
そんなわけで、1920年代中期には、上陸用舟艇として「小発動艇(小発)・大発」を実用化。

さらに、1930年代中期…世界初のドック型揚陸艦とも言われている「神州丸(神洲丸)」を完成させた。
神州丸は、従来の軍隊輸送船と異なり、多数の上陸用舟艇を格納庫に搭載しており、船尾から迅速に発進可能だった。
上陸部隊の支援を目的とする「航空能力」もあり、その発進にはカタパルトを使用していた。

陸軍が、このような本格的な揚陸艦を開発したのには、「上陸戦に対する日本海軍の関心の薄さ」が、背景にある。
当時の日本海軍は、戦艦や巡洋艦といった「戦闘艦」に注目しており、揚陸艦のような「補助艦艇」の開発には、極めて消極的だった。
上陸戦のみならず、遠隔地への軍隊輸送・船団護衛に対しても、理解が少なかった…と言われる。
そんなこんなで、「俺らがやらねば誰がやる!」という感じで、必然的に日本陸軍が、上陸用舟艇などの開発を行う必要があった。

ちなみに、陸軍が海軍とは別に、「独自の船舶部隊」を保有する事は、当時のアメリカ陸軍でも行われていた。
現代でも、アメリカ陸軍は、大規模な船舶部隊を海軍とは別に保有し、「ラニーミード級汎用揚陸艇」などを運用している。

あきつ丸完成

完成した「神州丸」は、日中戦争の上陸戦・輸送任務で、その能力を発揮し活躍。
この「神州丸」の成功により、陸軍は「もっと作ろうぜッ」というテンションになり、「特種船(揚陸艦)」の増産を計画した。
しかし
予算の制約により、大量の特種船を陸軍省保有船として維持する事は難しかった。
このため、陸軍は戦時での徴用を前提として、民間海運会社に補助金を出し、建前上とはいえ、「特種船を民間籍の商船」として建造することにした。
こうして…「あきつ丸」が、太平洋戦争中の1942年(昭和17年)1月30日に竣工した。

特徴であります

あきつ丸の特徴は、船内に広い舟艇格納庫を設けている事で、ここに大量の上陸艇を搭載していた。
そして船尾には門扉があり、ここから滑走台を通して、上陸艇を発進させる事ができた。
あきつ丸1隻で、兵士約1,000名、1個大隊が上陸可能

また、上部には飛行甲板と格納庫があり、上陸支援用の航空機を搭載、発艦させられるようになっていた。
この為、「陸軍空母」とも呼ばれたりもする。
甲板後部には、デリック(クレーン)と船幅いっぱいのエレベーターが鎮座。
着艦用の設備は無いので、発艦した機体は、味方の勢力圏や占領した飛行場などに着陸するしかなかった。
それらが確保出来ない場合は、機体を捨てて脱出するハメになる。

蘭印作戦

そんなこんなで…「あきつ丸」および「神州丸」は、南方資源確保のため、1942年1月11日より始められた「蘭印作戦(オランダ領インドネシア)」に動員。
最終目標は、オランダ軍・イギリス軍・オーストラリア軍・アメリカ軍の連合軍約8万強が、守備するジャワ島の制圧だった。
当時…東南アジアのほぼ全域を掌握していた日本軍にとって、このジャワ島上陸作戦は、南方作戦の総決算でもあった。
同時に、100隻弱の船団を使用する南方作戦最大規模の上陸作戦だった。
2月18日、西部ジャワ島上陸部隊である「神州丸」は「あきつ丸」などとともに、総計56隻の大船団を編成し、ベトナムのカムラン湾を出港。
27日、日本軍上陸を阻止すべく出撃した連合軍艦隊と、日本海軍第3艦隊との間で数日に渡り「スラバヤ沖海戦」が発生。
3月1日0時、ジャワ島のメラク湾に入った「あきつ丸」の船団は揚陸作業を開始。
0時30頃には、第1次上陸部隊がジャワ島に無血上陸。
第2師団を筆頭に、各上陸部隊は快進撃を続け、5日には首都バタビアを占領し、7日には要衝バンドンに進出。
今村中将以下第16軍は、3月10日にバンドンに入城し、蘭印作戦は日本軍の完勝に終わった。

お前が護衛空母になるんだよ!

ジャワ島上陸作戦後…「あきつ丸」は、その優秀な積載・揚陸能力を生かし、他の特種船と共に輸送任務に就いた。
特筆すべき点として、連日空襲を受けるため、海軍の空母機動部隊でさえ入港しなかった「要衝ラバウル」へ、3回も入港している事が挙げられる。
時は流れて…太平洋戦争中期、アメリカ潜水艦の通商破壊作戦によって、日本の輸送船被害が激増。
これを受けて、日本軍は、オートジャイロである「カ号観測機」を、対潜水艦哨戒機として使用する事を決定。
そして「あきつ丸を護衛空母に改造して、カ号観測機も載せようぜ!」ということになった。
しかし…量産体制が整わなかった上に、「三式指揮連絡機」の方が即戦力として有益だとして、カ号の搭載は見送られた。

1944年4月、あきつ丸は日本に戻り、着艦制動装置や対潜用の迫撃砲などが設置され、護衛空母に改造された。
そして、8月7日より…対馬海峡・朝鮮海峡において「あきつ丸」が対潜哨戒任務を開始。
ところがである!
当時の日本海に、アメリカ潜水艦は侵入していなかったため、対潜水艦戦は起こらなかった。

あきつ丸の最期

そんなあきつ丸ちゃんに、1944年10月に勃発した「フィリピン防衛戦」のために、陸軍第23師団を緊急輸送する任務が与えられた。
この軍隊輸送任務は、「あきつ丸」のほか「神州丸」・「摩耶山丸」・「吉備津丸」の各特種船が受け持った。
これらルソン島行き特種船団は、シンガポール行きタンカー船団とともに「ヒ81船団」を編成。
ヒ81船団は、優秀!な特種船と高速タンカーが主体となり、護衛には海軍の「空母・神鷹」、「駆逐艦・樫」、海防艦7隻が就く、当時の日本軍としては、豪華な編制だった。

11月14日の午前6時、ヒ81船団は、佐賀県と長崎県に跨る伊万里湾を出港。
目視が可能な昼間には、「空母・神鷹」の九七艦攻2機が、常時飛行し哨戒。
また、護衛各艦と「あきつ丸」・「神州丸」は、水中聴音機を使用し、敵潜水艦の接近を警戒。
だが、「あきつ丸」の水中聴音器は故障しがちで、被雷した時には目視監視だったという。
15日正午頃、五島列島沖において…
護衛艦艇および「神鷹」の哨戒の隙を突き、アメリカ「潜水艦クイーンフィッシュ」の発射した2本の魚雷が、「あきつ丸」の左舷船尾に命中。
後部弾薬庫に誘爆、船尾楼部分が吹き飛び、船体の後部1/3は沈下。
急速に左に傾斜し始めた「あきつ丸」は、ボイラーが爆発。
船橋付近では火災も発生、舟艇ドックにも浸水して転覆…その後、沈没した。



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