片倉九時 2019/03/15 11:58

阿・吽 五十五話と五十四話の感想

 


 今回に際しては100年の歴史が空よりも高く海よりも深い空海が東大寺をたやすく呑み込んでしい、南都仏僧の計画通りにはいかなかったという事だろう。
 
 個人的に前の最澄の話をしたいと思う。
 ああ最澄!最澄!
 最澄が山に入る時、なぜ結界が切れたのか。なぜつまずいたのか。あの殺人鬼はなんなのか。これらすべて最澄がそう考えていることだと思う。
 なぜ空海に会いに行かなかったのか。感覚がなくなったから?違うと思う。嫉妬だ。
 阿吽の中の最澄は綺麗すぎる。そして最澄自身もそんな自分しか表に出せない。
 なぜ自分に驚いたのか?それは今まで自分でも目をそらし続けた自らの醜い姿だったからだ。
 ああ最澄。ここでも空海と差があることが書かれている。空海がまおと呼ばれてる時に見た自分をここになってようやく最澄もたどり着いたのだ。
 やはり最も澄むという名は呪いだ。人を救うというがそのために壁に当たっても怒ることができない。ごんぞう和尚やたいはんのように一人の人間としてみてくれる人の前でしか泣くことができない。みんなが慕ってくれる。そんな自分でも運がない。さらに空海という自分より優れた僧侶に嫉妬している。でもそんな醜い自分をさらけ出すことはできない。なまじほかの僧侶より優れているからこそできないのだ。だから自分の中に、心の奥にしまっていたのだ。だからそのしまっていた自分に相対したとき驚いたのだ。こんなにも大きな存在がいたのだと。
 「泣くのをやめる」というのは、綺麗なままの自分をやめる宣言ではないだろうか?だから最澄は五十五話で帝に独立を働きかけ、天台を大乗といい始めたのだ。やりたいようにやる。言いたいことは言う。
 誰からも非難されないなんてことはないが、自分には嘘をつかない。そんな最澄をこれから見れるのではないだろうか?とても楽しみだ。
 

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