雑記:解は必ずしも正ではない

子供が"学校に馴染めない、楽しくない"という旨を家族に打ち明けたところ、
「友達を作ってみたら? 私たちもそうしたら楽しくなったよ。」
という解を与えられる。
といった例えの出来事があり、思うところがあったので書いていきます

正解は諸刃の剣

一番苦しんでるのって当事者である当人ですし、すぐ解決できるのならそもそも思い悩んでなんていないんですよね。上記の例なら子供も「そりゃ気の合う友達が居たら楽しいだろうけど!」となる。
正解は反論できる余地が少ないからこそ、却ってその絶対性に苦しめられるよな~と。

正解に既に居る人たちは安全圏に居るわけなので、良かれと言いたくなるんだとは思うんですが!
とはいえ、解が実現可能な場合は伝えて助けになるケースももちろんあるので、ほんとうに難しい…。

話を聞くことに正解はいらない?

なので、当人がその時点で問題解決を求めていない限りは、聞いて受け入れるだけでも十分助けになってると思います。
聞く側としては話の流れや落とし所、役回りの意義として、「じゃあ改善しよう」と言いたくなるとは思うのですが、人間思い悩んでいる状態のIQは-10000%であることがほとんどだと思います。当人が考えや反応をすぐに言語化することができず不完全燃焼になり、却って疎外感を与える可能性が高いです。焦らずに構えるのが大事かも。

また、解を提示された場合も、あくまで個人の考えの一つであって、それが絶対だと思わない・他にも聞いてみることが大事だな~と感じました。


how to論が溢れる昨今では、ことさら正解が至上と考える、力に頼りたくなる傾向があるので、自身や他者に行使しすぎしないよう気をつけたいという自戒を込めて。



◆書いてから気づいたこと
・流動性のあるコミュニティならそんな深刻にならんでもいいかも
・ゲームはその辺のジレンマがなく解を追求できるから好きなのかも
・この考えも正解じゃなくて、あくまで可能性と認識する

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