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ナントカ堂 2023/11/29 22:06

清代の契丹人の末裔

『全訳契丹国志』を書いて早10年、私も歳を取ったものです。
で、その中から今回の表題に書いた清代の契丹人の末裔に関する記述を抜粋。




 清が中華に入り王朝を打ち立てると、契丹人の子孫はこれに従い、八旗として支配層の一員となりました。
 『続通志』巻八十二の「氏族略」二に「伊喇氏 その先祖は遼の国族」「舒穆嚕氏 その先祖は遼の后族」と記されていますが、清代においては耶律氏は伊喇氏または伊拉里氏を称し、蕭氏は舒穆嚕氏または舒穆禄氏を称しました。
 以下、清代に活躍した契丹人の子孫について、ここでは『清史稿』に伝のある代表的な人物だけ略伝を記しておきます。

伊拉里氏

和舜武(?~1820)
 山西巡撫として治水に功績を挙げる。山東布政使となったとき、山東の民が乱訴する風潮を改めさせた。(『清史稿』巻三百五十九)

増祺(1851~1919)
 盛京将軍として南下するロシアに対処し、張作霖を帰順させた。(『清史稿』巻四百五十三)

舒穆禄氏

揚古利(1572~1637)
 父の郎柱は庫爾喀部の長で早くに清の太祖に付いた。郎柱は部の者に殺され、揚古利は十四歳で父の仇を討ち、太祖に目をかけられた。常に最前線に立って戦い、たびたび多くの傷を負ったため太祖に注意された。数々の戦功を挙げて太宗の時代に一等公の上の超等公となった。(超等公は揚古利のみに授けられた)朝鮮遠征の陣で朝鮮の伏兵に狙撃されて卒去した。(『清史稿』巻二百二十六)
 子孫は塔詹(子)-愛星阿(子)-福善(子)-海金(子)-豊盛額(子)-豊安(子)-阿克東阿(子)-富克錦(子)-連成(子)-銘勛(連成の養子)と続き、光緒三十三年(1907)に銘勛の子の扎克丹が英誠公を継いだ。(『清史稿』巻百六十八)

愛星阿(?~1664)
 揚古利の孫。定西将軍となり呉三桂とともに南明の永暦帝を捕らえる。子の富善は康熙帝がジュンガル部を攻めたときに兵站を担った。(『清史稿』巻二百三十六)

冷格里(?~1634)
 揚古利の弟で数々の軍功を立てた。太宗が即位して八旗を指揮する八大臣が置かれ、弟の納穆泰がその一人となると、それを補佐する十六大臣の一人に選ばれた。納穆泰が城を捨てて退却すると、代わって八大臣に抜擢された。明を攻めて旅順を取った年の冬に発病し、翌年卒去した。(『清史稿』巻二百二十七)
 子孫は穆成額(子)-穆赫林(子)-四格(子)-吉当阿(子)-色克図(吉当阿の弟)-楊桑阿(色克図の兄の子)-舒崇阿(楊桑阿の弟)-楊桑阿(復帰)-賽炳阿(楊桑阿の弟の子)-舒勲(子)-瑞文(子)-奎文(瑞文の大叔父の孫)-貴文(奎文の弟)-毓順(子)-鍾斌(子)と一等子爵を続き、光緒三十一年(1905)に鍾斌の叔父の子の栄華がを継いだ。(『清史稿』巻百七十一)

納穆泰(?~1635)
 乳児のとき父が殺され、母に連れられて太祖の元に身を寄せた。軍功を挙げて八大臣に抜擢されるも、作戦の失敗により兵が壊滅して城を捨てたため、死を免れたものの免職となった。その後数々の軍功を立てて名誉を回復し三等梅勒章京(三等男爵相当)となり、三代世襲を許された。(『清史稿』巻二百二十七)

譚泰(1593~1651)
 揚古利の従弟。明討伐に数々の軍功を挙げて征南将軍となる。ドルゴンの信任を得て専横の行いが多かった。ドルゴン死後に一党の多くが誅殺されたが譚泰は処罰されなかった。しかし譚泰は今までに増して専横な振る舞いを続けたため、ついに誅殺された。(『清史稿』巻二百四十六)

譚布(?~1665)
 譚泰の弟。兄とともに戦い、李自成や張献忠討伐にも活躍して、工部尚書に昇進した。譚泰が誅殺されたときに、兄弟は連座しないとの詔が出されたが、工部尚書は罷免された。(『清史稿』巻二百二十七)

仏倫(?~1701)
 呉三桂の孫の呉世を討伐する際、兵站を担った。山東巡撫のときに労役の負担の不公平を是正した。文淵閣大学士になったが、かつて政敵を陥れたことを告発されて休職させられた。(『清史稿』巻二百六十九)

徐元夢(1655~1741)
 康熙帝、雍正帝に仕え、『明史』の総裁、『世宗実録』の副総裁として、編纂に従事した。(『清史稿』巻二百八十九)

舒赫徳(1710~1777)
 徐元夢の孫。監察御史のとき東三省の開発を建議した。金川・緬甸などの遠征に参加し、伊犂将軍として伊犂の宣撫に努めた。(『清史稿』巻三百十三)

老舎(1899~1966)
 『駱駝祥子』などを書いた文豪。文革により死去。


 伊拉里氏はそれほど揮いませんでしたが、舒穆禄氏は清代において満族八大姓に数えられるほどの譜代の重鎮となりました。清朝にとっての契丹とは、遠く過ぎ去ったロマンチックな過去でもなければ、同じ北方民族として清と重ね合わせて暗喩するものでもなく、ルーツの一つであり、重臣の先祖でもあるため、敬意を払うべき対象でした。
 なお満族八大姓には諸説ありますが、『清稗類鈔』『郎潜紀聞初筆』『清朝野史大観』によると以下の八氏族です。

瓜爾佳氏(金の夾谷氏の子孫)
鈕鈷禄氏(金の粘割氏の子孫)
舒穆禄氏(契丹の蕭氏の子孫)
納喇氏(金の拿懶氏の子孫)
棟鄂氏(伝承では宋の神宗の第十二子の越王の子孫)
馬佳氏(金の裴満氏と共通の先祖を持つ)
伊爾根覚羅氏(伝承では宋の徽宗・欽宗の子孫)
輝発氏(納喇氏の一族)

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ナントカ堂 2023/11/07 01:47

康兆の変

 よく「康兆が穆宗を廃したために遼の侵攻を招いた」と言われ、『遼史』などにもそう書かれていますが、『高麗史』巻四の顕宗元年五月甲申条にはこう記されています。


五月甲申、尚書左司郎中の河拱辰と和州防禦郎中の柳宗を遠方の島に流した。
 河拱辰が嘗て東女真を討って敗れたことを、柳宗は恨みに思っていた。ちょうど女真人九十五人が来朝して和州館に至ったため、柳宗はこれを皆殺しにした。このため両名とも流罪となった。女真がこれを契丹に訴えると、契丹主は群臣に「高麗の康兆は主君を弑した。大逆である。問罪の兵を発するべきである。」と言った。


 大義名分は弑逆なのでしょうが、直接的には女真人に泣きつかれたのが原因かと思われます。

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ナントカ堂 2023/10/22 00:16

仙人趙高

 wikiを始めとして「趙高」でネット検索しても下記の話が見えないのでここに訳します。出典は『拾遺記』


 子嬰が望夷宮で寝ていると、夜中にこのような夢を見た。
 身長十丈でひげの青い人物が、玉の靴を履き丹の車を朱の馬に引かせて宮門まで至り、「秦王子嬰に会いたい。」と言った。宦官が許可し、子嬰の元まで来ると、言った。
 「私は天の使いで、沙丘から来た。天下はまさに乱れようとしている。これは同族同士で殺し合わせようとする者がいるからだ。」
 翌日目を覚ました子嬰は、夢で告げられたのが趙高の事だと疑い、趙高を咸陽の獄に入れた。そして井戸の中に吊るしたが七日経っても死なず、更には鍋で煮たが七日かかっても湯は沸かなかった。
 殺し終えてから子嬰が獄吏に「趙高は神だったのか。」と尋ねると、獄吏は言った。
 「初め趙高を捕えたとき、懐に一つの青い玉を持っているのを見ました。それは雀の卵ほどの大きさでした。」
 このとき方士がこう説明した。
 「趙高は先祖から韓終丹法を伝授されました。これを身に付ければ、冬に堅い氷の上に座り、夏に炉の上に座っても、寒さ熱さを感じません。」
 趙高が死ぬと、子嬰はその死体を九達の路に棄てた。泣いて見送る者が千家族。ある者は一羽の青い雀が趙高の死体の中から出て、まっすぐ飛んで雲の中に入っていくのを見た。ここから道教の錬成の術が信じられよう。

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ナントカ堂 2023/10/19 22:48

痛風とカニ

 先ごろ出した『北宋潜邸旧臣列伝』にも書きましたが、『宋史』巻三百七「喬維岳」にこのような記述が。


 咸平の初めに蘇州知州となった。喬維岳は以前から痛風で、真宗は「呉では魚やカニを食べることが多い」と考え、寿州に異動させ、太医を急ぎ派遣して治療させた。


 既に千年前(もっと古い記録があるかもしれませんが)に「カニは痛風に悪い」ということが広く知れ渡っていたのでしょう。

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ナントカ堂 2023/10/03 12:00

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