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ナントカ堂 2023/12/30 20:48

王武俊(唐代の契丹人)

 もう、10年以上前に書いた『全訳契丹国志』から、唐代の契丹人で、『旧唐書』に「帝の車駕が都にも戻ると寵遇はますます厚くなり、子には公主が嫁ぎ、子弟のうちまだ乳児の者にまでみな官位を賜った。」と記されている王武俊の伝を、ここに引きます。(少し長いです)


王武俊(『旧唐書』巻百四十二)

 王武俊は契丹の怒皆部落の出で、祖父は可訥幹で、父は路倶である。開元年間(713~741)、饒楽府都督の李詩が路倶と共にその麾下の部落五千帳を率いて、南河において帰順のしるしに冠と官服を着用したため、詔を下してその善行を褒め薊に居住させた。
 王武俊は初め没諾幹と名乗っていた。十五歳のとき騎射がうまくて評判となった。上元年間(760~761)、史思明が恒州刺史となると、王武俊は史思明の配下である李宝臣の裨将となった。
 宝応元年(742)、官軍が井陘に入り、いままさに河朔を平定しようとしていたとき、王武俊は李宝臣にこう言った。
 「少数で多数に対抗し、大義名分無き方が有る方に向かえば、戦えばばらばらになり守れば崩れ去ります。かの精強な軍は遠くまで出征しているので、ここは出ないで守るべきです。」
 そこで李宝臣は守りを固めることに徹し、朝廷から恒・定・深・趙・易の五州をもって朝廷に帰順した。そして官軍に協力して東方の史思明の残党を攻撃した。このため李宝臣は恒・定などの州の節度使に任命された。李宝臣は王武俊が謀を巡らしたおかげであるとして、朝廷に奏上して王武俊を兼御史中丞とし、本軍先鋒兵馬使に任命した。

 大暦十年(775)、薛嵩が死んだため、田承嗣が相・衛・磁・邢・洺の五州を兼有した。田承嗣は将の盧子期を遣わして磁州に攻め入った。詔が下り、李宝臣と李正己・李勉・李承昭・田神玉・朱滔・李抱真に各々兵を出して討伐するよう命じた。諸軍は盧子期と清水で戦い大いに破った。李宝臣の将の有節が盧子期を生け捕りにして献じた。代宗はその軍功を喜び、宦官の馬承倩に詔を持たせて遣わし、大々的にその功績を労った。馬承倩が帰ろうと宿舎にいたところ、李宝臣が自ら絹百反を持ってきて贈った。馬承倩は嘲り罵って、その絹を道ばたに投げ捨てた。李宝臣は側近のほうを振り向いて恥じ入る様子であった。

 李宝臣は政庁に戻って休むこととし、諸将も解散した。李宝臣は密かに衝立の間から様子を伺っていると、ただ王武俊だけが佩刀を門下に立てた。そこで李宝臣は王武俊を召しいれて、自分も佩刀を外して共に語った。
 「先ほどの生意気な小僧のやりようを見たか?」
 王武俊が言った。
 「今閣下は軍功がありながらあのような目に遭いました。乱が平定された後、天子からの一枚の詔で都に呼び出されてとどめ置かれたなら、ただの一人の男に過ぎません。どうなることやら。」
 李宝臣が言った。
 「ならどうすればよいのか?」
 王武俊が言った。
 「田承嗣を温存しておいて己の有利になるようにする以外にはありません。」
 李宝臣が言った。
 「いま私と田承嗣とは仲たがいしている。どうして心が通じ合うようになろうか?」
 王武俊が言った。
 「勢力が同等で抱える問題も同じなら、あっという間に仇敵も転じて父子のようになれます。しかしそれも口先だけならうまくはいきません。いま宦官の劉清譚が駅にいます。その首を斬って田承嗣に送り、妻子を人質とするのです。」
 李宝臣が言った。
 「そのようにうまくいくか不安だ。」
 王武俊が言った。
 「朱滔が官軍として滄州に駐屯しています。私に朱滔を捕らえて田承嗣に送ることを命じてください。そうすれば信頼させることができるでしょう。」
 そこで李宝臣は許可した。

 王武俊は二千の兵を選び出して全員を駿馬に乗せ、夜通しで三百里を駆け、明け方には朱滔の陣に着いた。そこで王武俊は守りの手薄なところを急襲した。朱滔軍は陣を出て戦ったが大敗した。王武俊は朱滔の親族を捕らえたが、朱滔はどうにか逃げ延びた。これより李宝臣は田承嗣・李正己は互いに支援しあうようになり、皆王武俊に注目するようになった。

 李宝臣が死に、その子の李惟嶽が父の地位を就こうと図った。李宝臣の旧将である易州刺史の張孝忠は州ごと朝廷に帰順したので、結局は張孝忠が李宝臣の地位を引き継ぐこととなった。そこで朝廷では李惟嶽に父の棺を守って都に戻るよう命じた。李惟嶽は命令に従わなかった。
 建中三年(782)正月、詔が下り、朱滔と張孝忠が軍を合わせて李惟嶽を討伐するよう命じられた。李惟嶽は王武俊と共に兵一万あまりを率いて束鹿で戦った。王武俊は三千騎を率いて先鋒となったが朱滔に敗れ、李惟嶽は遁走した。ここで趙州刺史の康日知が州ごと朝廷に帰順した。李惟嶽は王武俊に兵を率いて康日知を討つよう命じた。康日知は人を遣わして王武俊にこう伝えた。
 「李惟嶽は弱小で謀も無い。どうして共に反乱を起こすに足りようか。わが城は堅固だが多くある城のうちの一つに過ぎない。それが一ヶ月経ってもまだ落ちない。その上李惟嶽は田悦の援軍をあてにしているが、田悦は去年、州城下で民や兵を多く失っていながらまだ攻め落とすことができていない。ましてやこの城を攻め落とすことができようか。」

 また代宗直筆の詔を偽造して王武俊を誘い信用させた。そこで王武俊は兵を従え恒州を急襲した。
 王武俊は数百騎を率いて政庁に入り、李惟嶽に使者を遣わしてこう伝えた。
 「大夫が魏・斉と共に挙兵したのは共通の敵があったからです。今や田尚書は既に敗死し、李尚書は趙州を保つだけになっています。兵士らは束鹿の戦い以来、傷つき疲弊しております。田僕射の強兵は既に我らの領内に入り、張尚書は既に定州を授けられました。我ら三軍は盟主が亡くなり家が失われるのではないかと懼れております。聞くところによれば大夫を呼び出す詔があるとか。速やかに命令に応じて朝廷に赴くことです。そうしなければ災いが刻々と迫ってきましょう。」
 李惟嶽は怖れうろたえただ呆然としていた。そこで王武俊の子の王士真は李惟嶽を斬り首を持って政庁から出てきた。
 王武俊は自分に味方しない者十数人を殺しついに李惟嶽の叛乱は収まった。首は都に送られて帝に報告され、王武俊は検校秘書少監兼御史大夫・恒州刺史・恒冀都団練観察使を授けられ、実封五百戸を与えられた。康日知は深趙団練観察使となった。

 このとき李惟嶽が勝手に任命した定州刺史の楊政義が州ごと帰順してきて、深州刺史の楊栄国も降った。そこで朱滔は兵を分けて定と深に駐屯させた。朝廷では既に定州を張孝忠に領有させて.深州を康日知に領有させていた。
 王武俊は趙州と定州を失ったことを怒り、かつ今の地位が希望通りではないことに不満を持っていた。朱滔も深州を失ったことに怒りを感じていたので、王武俊を誘って反逆を謀り、朝廷の命令を聞かなくなった。そして強兵を率いて田悦を救援した。
 このとき馬燧・李抱真・李芃・李晟がちょうど田悦を討とうとしていた。田悦は洹水で敗れて以来、その兵は毎年風雨にさらされ、田悦の勢力は既に縮小していた。ここに至り王武俊と朱滔がまた田悦の勢いを立て直したので、田悦の勢いはだんだんと大きくなっていった。

 十一月、王武俊は大将の張鐘葵に趙州に攻め込ませた。康日知はこれを打ち破り、張鐘葵の首を斬って朝廷に献じた。
 この日、王武俊は勝手に建国して趙王を称した。更に恒州を真定府として勝手に官僚を任命した。朱滔・田悦・李納も一同に王を僭称して各々の支配地に拠った。そして各々使者を蔡州の李希烈のもとに遣わして自分たちと同様に王を称するよう誘った。

 四年三月、李希烈はこれ以前に腹心の周曾が自分を殺そうとした計画を潰した。あるところから李希烈が既に死んだと伝わった。馬燧ら四節度の軍中はこれを聞くと、歓声が外にまで響き渡った。

 六月、李抱真が説客の賈林に命じて、偽って王武俊のもとへ投降させた。賈林は王武俊と面会するとこう言った。
 「ここに詔を持ってきましたが降伏しないのですか。」
 王武俊が動揺して詳しい話を聞くこととした。賈林が言った。
 「大夫がもとから忠誠心を持っていて、大夫が王位に就いた日に、胸をなでながら側近のほうを振り向いて『私はもともとは忠義の心があったのに天子は省みなかった。』と仰ったことを天子はご存知です。その後、諸軍からは大夫が忠誠心を持っていると論じる上表文が立て続けに届いております。天子はこれらの上表文をご覧になって落ち着かない様子となり、使者に『朕の以前の行いは誤りであった。後悔してももうどうしようもない。友人の間柄なら謝ることもできようが、朕は四海の主なのでほんのわずかな過ちも取り戻すことはできぬ。』と仰せにないました。」
 王武俊が言った。
 「わたくしめは蛮族の将ではありますが、それでも民を慰撫することは存じております。天子はなるべく人を殺さずに天下を安泰とすることをお考えのはず。今の山東には大軍を有する者は五人。繰り返し戦って勝っても、骨を野に曝すばかりで、勝ったとしても誰がその身を全うできましょうか。今わたくしが周りを気にせずに朝廷に帰順したならば、諸侯は互いに同盟して対抗するでしょう。蛮族はもともと性格が素直で曲がったことが嫌いなものです。朝廷が温情を示して我らの悪を洗い流してくださるのなら、わたくしめが先頭に立って朝廷に帰順いたしましょう。そして従わない者がいたならば勅命を奉じて討伐いたします。これが実行に移されたなら、上は天子に、下は朋友に背くことなく、河朔は五十日もしないうちに平定されることでしょう。」

 十月、涇原の兵が都を攻撃したので、皇帝は奉天に避難した。都を取り戻したので諸将は兵を引き揚げた。
 李抱真が潞・沢に帰還しようとしたとき、田悦は王武俊と朱滔を誘って李抱真を攻撃しようとした。賈林はまた王武俊にこう説いた。
 「今、撤退しようという李抱真の軍は前に輜重、後ろに精鋭がおり、兵の心は一つにまとまっているので、打ち破ることはできません。例え勝って領地を得ても利益は魏博に帰し、兵を失えば成徳が大いに損害を受けることでしょう。大夫はもともと易・定・滄・趙の四州を束ねていたはず。どうして先に故地を取り戻そうとなさらないのか?」
 王武俊はついに馬の首を北に向けて田悦との約束に背いた。賈林はまた王武俊にこう説いた。
 「大夫は冀の地方の豪族で、中華の地に割拠するはかりごとには組していませんでした。かつ朱滔の本心は邪悪で底が知れません。かの国では大夫の力が大きければ力を借り、小さくなれば併呑しようと考えております。なおかつ河朔には冀国の領域は無くただ趙・魏・燕の領域のみであるのに、今朱滔は自分の国を冀と称しております。すなわち大夫の冀州を狙っているということで、その兆しは既に形として現れています。もし朱滔が力で山東を制圧したなら、大夫は臣下の礼を取るほかはありません。従わなければ攻め込まれて国を奪われることでしょう。そのとき大夫は朱滔の臣となりますか?」
 王武俊は袂を投げて顔色を変えてこう言った。
 「二百年続く唐朝にさえ私は臣となることはできないというのに、誰があの田舎者の臣になどなれるか。」
 これより計略を廻らし、ついに南は李抱真と修好し、西は馬燧と同盟を結んだ。

 興元元年(784)、徳宗は己を罰し、謀反人に大赦を行った。
 二月、王武俊は三軍を集めて、趙国と称したのを取り消した。詔して国子祭酒兼御史大夫の董晋と中使の王進傑に、行在から恒州に赴かせて命を伝え、王武俊に検校兵部尚書・成徳軍節度使を授けられた。
 三月、司空・同中書門下平章事兼幽州盧龍両道節度使・瑯邪郡王を加えられた。

 このとき朱泚は勝手に朱滔を皇太弟に立てた。朱滔は幽・檀の強兵を率い、回紇二千騎を誘い、既に貝州を数十日包囲していた。白馬津を分断し、南は洛都を強奪して、朱泚の軍と合流した。このとき李懐光が反して河中に拠り、李希烈は既に大梁を攻め落として、南は江・漢にまで迫り、李納はなお斉で反抗し、田緒はまだ防備を固めておらず、李晟の軍は単独で渭水を守っていた。
 天子の命令に従う者は、天下にわずか十二、三ほどで、国内はバラバラになり、人心は寄る辺を失った。賈林はまた王武俊と李抱真の軍を合わせて、共同して魏博を救援させようと、王武俊にこのように利害を説いた。
 「朱滔が各地を攻めるなら、まず先に魏博を平定しようとするでしょう。更に魏博ではちょうど田悦が殺されて人心が動揺しており、十日以内に救援しなければ、魏と貝は必ずや朱滔に下るでしょう。そうすれば朱滔は数万の兵を増やします。魏と貝が下れば張孝忠は必ずや朱滔に臣従するでしょう。三道が連衡して回が合流すれば、長駆してここまで来ます。そのときご家族をどうして難から逃れさせますか?常山を守らなければ、昭義の軍は山西まで撤退するでしょう。そうなれば河朔の地は全て朱滔のものとなります。今、魏と貝がまだ下っておらず、張孝忠がいまだ味方していないこのときに、公と昭義の軍が合流してこれを打ち破るのは、落し物を拾う程度のことです。この計を用いるのなら、大夫の名声は関中に響き渡り、都と周囲の邑は座したまま回復され、帝の輿が公の功績によりお戻りになり、その功績は他に比べようも無いものとなるでしょう。」
 王武俊は喜んで同意した。王武俊と李抱真の軍で話がまとまり、日を占って同時に出兵した。

 五月、王武俊と李抱真の軍が鉅鹿の東で合流した。両軍が既に合流したことにより朱滔は恐れをなした。李抱真が陣を固め、王武俊は遊撃隊を指揮した。朱滔が砦から全軍で出撃すると、王武俊は鎧を身に着けずに急襲した。朱滔は臆病風に吹かれて壊走し、倒れた者を味方が踏みにじるような有様であり、死者は十人のうち四、五人出た。王武俊軍は敵の輜重・兵器・牛馬を数え切れないほど得た。朱滔は夜のうちに幽州に逃げ帰った。
 王武俊は凱旋し、上表して朱滔に代わり幽州・盧龍節度使に任命されるよう願い出て許可された。そして恒州を大都督府に昇格して、王武俊を長史とし、検校司徒を加えて実封を七百戸とした。他は元のままとした。

 帝の車駕が都にも戻ると寵遇はますます厚くなり、子には公主が嫁ぎ、子弟のうちまだ乳児の者にまでみな官位を賜った。まもなく母の喪に服した。復職して左金吾上将軍同正を加えられ、喪が明けると開府儀同三司を加えられた。貞元十二年(796)、帝は旧功を考慮して検校太尉兼中書令を加えた。
 貞元十七年(801)六月卒去した。享年六十七。朝廷の政務を五日間停止し、群臣は延英門に来て弔問した。これは渾瑊の故事に倣ったものである。詔して左庶子の上公に節を持たせて、王武俊に太師を追贈し、絹三千匹・布千端・米粟三千石を贈った。太常が威烈と諡した。徳宗は「王武俊は忠を尽くして国を奉じた。忠烈との諡を賜るように。」と言った。子は士真・士清・士平・士則で、士真が跡を嗣いだ。

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ナントカ堂 2023/12/24 20:39

王綧の残りの二人の子

 ウィキペディアの「王綧」の項を見ると、その子の阿剌帖木児・闊闊帖木児・兀愛の三人の記述が見え、そのうち阿剌帖木児(王雍)については関連ページがありますが、闊闊帖木児と兀愛についてはページが無いので、『元史』巻百六十六 列伝五十三から以下に訳します。


 闊闊帖木児は即位前の武宗に入侍し、功労を重ねて太中大夫・管民総管となった。

 兀愛は兄の阿剌帖木児の職を継ぎ、金虎符を佩び、安遠大将軍・安撫使・高麗軍民総管・東征左副都元帥の地位を与えられた。
 二十四年(1287)に乃顔が叛くと、力戦してしばしば勝利した。更に月魯児那演に従って、蒙可山と那江で塔不歹と朶観大王を討った。
 兵五千あまりを率いて、八剌哈赤の脱観と黒龍江で戦った。右臂に矢を受けながらも、傷に堪えて戦い続け、敵を大いに撃ち破った。
 二十五年、哈丹禿魯干の討伐に従軍し、平章の闊里帖木児の麾下として多くの功を挙げた。
 十二月、賊軍の古都禿魯干が斡禿魯塞に到着すると、平章は兀愛を従えてこれを攻め、降伏させた。
 翌年、昭武大将軍・遼陽等處行中書省事を加えられた。
 その翌年、哈丹らが高麗の国境に攻め込むと、兀愛が派遣されて鎮守した。城壁を修復して軍規を引き締めたため、軍の威勢は大いに振るい、賊は遂には逃げ出した。
 九月、哈丹禿魯干が再び纏春を攻めると、兀愛は兵を率いて撃退した。
 二十八年、都に行って内殿で世祖に拝謁すると、戦功を嘉されて、帝の持ち物から玉帯と銀酒器を賜った。
 二十九年、東征左副都元帥府に転任すると、高麗女直漢軍万戸府を創設して、三珠虎符を授けられ、鎮国上将軍・高麗女直漢軍万戸府総管となり、瀋陽安撫使・高麗軍民総管を兼ねた。

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ナントカ堂 2023/12/16 12:00

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ナントカ堂 2023/12/12 21:11

中国に伝わった飛梅伝説

 「飛梅」とネットで検索してもこの内容の記事が見当たらなかったので、ここに書こうかと思います。

元代の王逢の『梧溪集』巻四の「寄題日本国飛梅」にこう記されています。


 国相の管北野なる者は剛正にして有為であった。庭には紅梅がありその優雅さを好んだ。ある日、讒言されて宰府に流されると、まもなく梅が夜中に飛んできた。北野は結局、配所で死んだ。国人は祠を梅の傍らに建てた。


 北野は北野天神からでおそらくは諱を避けたのでしょう。菅が管になっていますが、この程度の誤伝は正史でさえもよくあることで。

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ナントカ堂 2023/12/03 16:23

李愍(隋末唐初の宦官)

『両唐書宦官伝』から。『全唐文補遺』所収の李愍の墓誌の訳です。




 君の諱は愍、字は強、隴西の成紀の人で漢の飛将軍の末裔である。大業年間に元徳太子のもとに出仕して、雍州の新豊県に居を定めた。(元徳太子は煬帝の長男で早世)
 君は主に忠実に仕えたが、隋は徳を失い国中が戦乱に巻き込まれた。われらが太宗は民の塗炭の苦しみを見かねて自ら甲冑を身に着けて立ち上がり、自らに矢や石を受けながらも五年間戦い続けた。公は人物を見る目があったためこれに身を投じ太宗を助けた。
 東都の王世充や黎陽の李密らは所詮井の中の蛙であり、公は太宗の幕僚としてこれらを平定した。武徳元年(618、唐の初めの年)に太宗の東征に従い、策を立てて勲功第一となった。詔に曰く。
 「三川平定の際、強らが自らの命も顧みずに戦ったので敵を打ち破り勝利した。」
 そして上儀同となった。公はその後も寝食も忘れて戦い、五年には東郡を平定した。詔に曰く。
 「公らは敵をなぎ払い勝利を収めた。ここに功を賞して褒賞を賜る。」
 上大将軍となり、続いて内侍省寺伯に任命された。貞観元年(627、太宗即位の年)、太宗は配下として戦った旧臣の功労に報い、公は朝散郎・守内謁者監となった。十五年に内給事となり、十七年には上柱国を加えられた。
 公は代々越嶲に住み、酋長の末裔である。貞観年間に太宗が旧臣に南夷を慰撫させようと考えたため公が遣わされた。公は父老には親しく、下吏や豪族には厳格に接し、清廉な者には手を執って交流し、秩序を乱す者には法を以って正した。こうして西南にて成果を挙げ太宗から高く評価されたが、貞観二十三(649)年三月二十三日に病のため崇仁坊の邸宅で薨去した。享年六十二。先に死んでしまった良き友に太宗は哀悼し僚友は心を痛めた。


 晩年について良さげに書かれていますが、おそらくは軍功のある宦官を扱いかねて南方に追いやったのではないでしょうか。正史の類には大功ある李愍についての記述は残されていません。
 北魏の時代には封爵された者も多かった宦官ですが、唐初に宦官を押さえ込む方針が採られたため、以後玄宗の時代になるまでの百年間宦官はさほど目立った活躍は見られません。

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