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ナントカ堂 2023/05/16 12:00

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ナントカ堂 2023/04/25 23:41

明史の文章は悪文だと思います。

 明史の文章って、一部の人間しか理解できない文章作ってマウント取りたがる儒者からしたら「良文」なのでしょうが、分かり易い文章が良いという基準からしたらかなりの悪文揃いです。
たとえば「后妃一」の洪武帝の馬皇后のこの記事


 初,后從帝軍中,值歲大歉,帝又為郭氏所疑,嘗乏食。后竊炊餅,懷以進,肉為焦。居常貯糗糒脯脩供帝,無所乏絕,


 意味がよく分からないな、と思ってたら『勝朝彤史拾遺記』におよそこのように書いてありました。


 郭子興の三人の子は洪武帝と仲が悪く、しばしば洪武帝を讒言したため、郭子興は理由を付けて、洪武帝を別室に幽閉し、食事を与えなかった。馬氏は密かに懐に食べ物を入れて差し入れた。しかしあるとき熱い餅を胸の近くに入れたため、胸を火傷した。


 『明史』の文章は、「従軍中、凶作の歳になり(后從帝軍中,值歲大歉)」は「常に干し飯や干し肉を貯めて帝に供し、欠乏することは無かった(居常貯糗糒脯脩供帝,無所乏絕)」に繋げるべきであり、途中に別のエピソードを入れるべきではないでしょう。
 また幽閉されたことを書いていないから、初めに読んだ時に、凶作を理由に郭子興が洪武帝に兵糧をくれなかったのかと思いましたし、「餅を蒸した」の後に「肉が焦げた」とあるから食べ物のことかと思いました。
 『明史』は、状況説明が抜けていたり、主語が誰だかわからない文章だらけで、現代の感覚から見るとかなり悪文でしょう。

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ナントカ堂 2023/03/23 12:00

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    Hirai ID01368337
    『大越史記全書』、購入させていただきました。

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ナントカ堂 2023/03/20 00:34

陳裕宗

 ウィキペディアの「陳裕宗」の項に

 「紹豊17年(1357年)の明宗の死後は実権を握るも、酒色に耽り奢侈を好むなどして国政を乱した。」

とありますが、『大越史記全書』にはそこに至る経緯をこう記します。


 己卯十一年八月十五日夜、上皇の子の陳暭が西湖に舟を浮かべて、溺れて魚簗に引っかかり助かった。上皇が医師の鄒庚に治療を命じると、鄒庚は「鍼を用いれば蘇生しますが、性的不能になるかもしれません。」と言った。鍼で治すと、果たしてその言葉の通りになった。これより鄒庚は人々から鄒神医と呼ばれ、累進して冠服侯・宣徽院大使兼太医使となった。


 辛卯十一年七月、鄒庚に罪があり死罪に相当したが、免れた。
 このころ帝が性的不能であったため、鄒庚が薬を進めた。その時こう言った。
 「男の子を殺して肝を取り、陽起石と混ぜて服用し、母を同じくする女と姦淫を行えば効果があるでしょう。」
 帝は納得し、嫡姉の天寧公主と通じると、果たして効果があった。
 鄒庚はこれより益々気に入られ、日夜後宮にて薬を扱い近侍し、遂には宮女と通じた。事が発覚すると、上皇は死罪に処そうとしたが、薬で帝を治療した功により免じた。


 丙午九年六月、帝は小舟に乗って米所郷にある少尉の陳吾郎の家に行き、三更になってから帰った。褚家江に至ると盗賊に遭い、宝璽と宝剣を失った。これより自らの命運が短いことを知り、益々逸楽に耽った。

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ナントカ堂 2023/03/13 00:27

陳国康(陳興道の異母弟)

 陳国康について、日本語で検索してめぼしい記事が無いので、ここに簡単に記します。
 (以下全て『大越史記全書』の記述に拠る)

 まず生まれですが、陳興道が1228年の生まれ。陳国康は、李氏莹が強引に陳柳と引き離されて太宗の皇后にされたときに、陳国康を妊娠していたので1237年生まれ。

 1261年の「陳光啓を太尉とした。」としたとの記事に続いて、帝の兄の陳国康が年長であったが、凡庸であったため陳光啓を任じたとあります。

 その後は演州を領地として貰ったようで、1269年の記事に「靖国大王の陳国康が演州に邸宅を建てた。廊廡が周囲を廻り、壮麗さが過剰で会った。帝はこれを聞くと、人を遣わし見に行かせた。陳国康は恐れ、仏像を造ってここに安置した。」とあります。

 1285年には庶子の陳鍵が部下と家族を連れて元に降っていますが、陳国康はあまりお咎めを受けなかったようで、1297年の死亡記事には
「陳国康は以前に演州を統治し、州の女のうち容姿に優れた者を選んで姫妾としていた。このため次子の陳恵義や陳国貞らは演州の女の所生であった。その後の演州知州は全て陳国康の子孫を充て、その子孫が絶えてから、州の人を知州とするようになった。」
とあり、世襲が認められています。

 上記の陳鍵については『大越史記全書』よりも『安南志略』の方が詳しく、巻十三にこのような伝があります。

 陳鍵は太国王の孫、靖国王の子で、本国では彰憲上侯に封ぜられた。立派な風貌で、兵書を読んで騎射を得意とした。父に代わって静海軍節度使を領し、太師・昭明王の娘の瓊徽を娶り、その間に墨侯が生まれた。
 至元甲申に世子の子の佐天王と仲違いし、老荘の道を学ぶとして仁睦郷に隠棲した。
 同年冬、鎮南王の大軍が侵攻すると、世子は戦って敗れ、更には右丞の唆都が占城から侵攻した。世子は動揺して策が無く、陳鍵を復帰させると、兵を指揮させて唆都を防がせた。
 兵は弱く援軍も無く、世子の生死も不明となり、陳鍵は黎崱らに言った。
 「世子に呼び出され、参内もしないままに軍を率いることとなった。世子は危機が迫っているのに状況を理解せず、このままでは国が亡ぶ。」
 翌年正月、黎崱ら数万の人々を率い、武器を献じて鎮南王に降った。鎮南王はその行動を嘉し、褒美として襲衣と鞍轡を与えた。
 四月に明里や昔班らに伴われて大都に向かうと、支凌まで来たところで安南国人に攻囲された。陳鍵は明里らと共に包囲を破ったが、更に前方で敵が待ち構えていて物資を全て奪われた。
 陳鍵は謙虚にして雅量あり、部下に温情を以って接したため、民から慕われていたが、不幸にも道半ばにして亡くなり、朝廷に仕えることができず、死して追贈を受けることも無かった。
 国から出る時、国母の母の黎氏も同行していたが、国人に捕らえられて殺された。痛ましいことである。ただその父母は世子の兄だったため難を免れた。

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