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ナントカ堂 2023/07/07 23:16

海陵王の開戦理由

 海陵王が南宋を攻撃したのは正隆六年ですが、『金史』列伝六十七「張仲軻」によれば、その三年前に宋の使者に対してこのように話しています。


 三年正月、宋の賀正使の孫道夫が帰国の挨拶に来ると、海陵王は左宣徽使の敬嗣暉を通じてこう伝えた。
 「帰って汝の皇帝にこう伝えよ。汝は我が国に仕えるのに多くの不誠実な行為をしている。今、およそ二つの事を挙げる。
 汝の国の民が我が領内に逃げ込んだ場合、国境の下吏は即座に送り返しているが、我が国の民が叛いて汝の領内に逃げ込んだ場合、地方官が求めても往々にして逃げ口上を言って返さない。これが一つ目。
 汝の国は国境近くで不当に鞍馬を買い、戦争の準備をしている。これが二つ目である。しかも馬は人がいなければ役に立たないはずだが、国境近くに兵がいないのであれば、馬を百万頭得たとして何に使うのか。これでは我が国も備えをしなければならない。我が国は汝の国を取る考えは既に止めたのに、汝の国が我が国を狙うのであれば、あってはならないことである。
 私が聞くところに拠れば、叛逆者を受け入れているのも、不当に鞍馬を買っているのも、全ては汝の国の楊太尉の行いであるという。たびたび密偵を捕えて尋問し楊太尉の事は知っているので、我が国に何もできはしないだろう。」


 文中の「楊太尉」とあるのは、『宋史』列伝百二十六にも「楊太尉」との記述が見える楊存中のことでしょう。開戦のための言いがかりなら三年も待っていないはずで、単純に善処を求めたのでしょう。
 これが出兵を決めた正隆六年になると、もう一件、抗議内容が増えています。以下は列伝六十七「李通」から。


 四月、簽書枢密院事の高景山を宋帝の誕生日を祝う使者とし、右司員外郎の王全を副使とした。海陵王は王全に言った。
 「汝は宋主に会ったら、南京の宮殿に放火したこと、国境近くで不当に馬を買ったこと、叛逆者を招致したことの罪を問い質し、朕自ら詰問するので大臣の某人と某人を送るようにと伝えよ。また漢・淮の地を要求せよ。もし従わないのであれば、声を荒げて責めよ。宋は決して汝を害することは無いだろう。」


 宮殿放火については列伝二十「郭安国」に、貞元三年(1155)の新都の大内裏焼失について、責任者の郭安国らをこう責めています。


 「朕は宮殿を壮麗にしようとは考えていない。即位以来、宋遠征を考えているが、汝らは防備を固めることを知らず、宋の間者のせいで宮殿は全焼した。本来なら汝らを死罪とするところであるが、古くから仕えている者なので特別に特別に赦したのである。(後略)」


 思えば、戦いを仕掛けられた側のはずの南宋がやたらと有利に事を運んでいたように見えますが、それならそれで、挑発に乗って不利な水上戦を行ってしまった海陵王も浅慮の謗りを免れないでしょう。

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ナントカ堂 2023/07/02 11:24

海陵王の三つの望み

 wikiに


 即位後、腹心に「金の君主となる」「宋を討ってその皇帝を自分の膝下にひざまずかせる」「天下一の美女を娶る」という3つの夢を打ち明けている


とありますが、このことが記されている『金史』列伝六十七「高懷貞」を見るなら即位前のことです。以下その訳文。


 高懐貞は尚書省の令史で、以前から海陵王と親しかった。海陵王は長い間、叛逆心を抱き、高懐貞にたびたび内心を明かしていた。海陵王は言った。
 「私には三つの志がある。国家の大事は全て私が決めることが一つ目。兵を出して宋を討ち、君長を捕えて面前で罪を問うことが二つ目。天下の絶世の美女を妻とすることが三つ目である。」
 これより小人佞夫が皆その志を知り、争って気に入られる話をした。
 大定県丞の張忠輔は海陵王に「貴公と帝が撃球をしている夢を見ました。貴公の乗る馬がぶつかって通り過ぎると、帝は落馬しました。」と言った。海陵王はこれを聞いて大いに喜んだ。
 このころ熙宗の在位は長く、重臣に政治を任せていた。海陵王は親しい者を宰相として(宋や金などでは宰相は複数名)権力を握り、遂には弑逆を図った。全て高懐貞ら小人が阿諛追従して導いたものである。


 叛逆の志が広く知れ渡っている時点で、普通に熙宗に粛清されている思うのですが。

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ナントカ堂 2023/06/13 02:33

楊伯雄(海陵王関連分)

 「楊伯雄」とグーグルで日本語のページを検索すると、あまり記事が出てこないので、以前に出した『金史漢族列伝』から、海陵王関連の部分だけを挙げてみましょう。
(『金史』列伝四十三の訳の一部です)

 このころ海陵王は執政の地位に在り、旧知の楊伯雄をたびたび屋敷に招いた。楊伯雄は「行きます。」と返答したが、実際には行かなかった。後日、海陵王が不審に思い尋ねると、楊伯雄は「君子たるもの人からの礼は受けるべきですが、権力者に取り入るようなことはしたくありません。」と言った。これより益々海陵王から厚遇されるようになった。

 海陵王が帝位を簒奪して数か月後、楊伯雄は右補闕に昇進し、その後、修起居注に改められた。

 海陵王は政治に関する意見を強く求め、講論するたびに夜にまで至った。
 あるとき海陵王が「人君が天下を治めるに、何を重視すべきか。」と尋ねると、楊伯雄は「静なることを重視すべきです。」と答えた。海陵王は納得してそれ以上何も言わなかった。
 翌日、海陵王が尋ねた。
「私は諸部や猛安を各地に移して駐屯させ国境を守らせている。昨夜の答えだと、これは静ではないことになるか。」
 楊伯雄が答えた。
 「兵を移して各地に駐屯させるのは、南北を相互連携させるためで、国家長久の策です。静とは民の暮らしを掻き乱さないことを言います。」
 乙夜(10時頃)になって、海陵王が鬼神について尋ねると、楊伯雄は進み出て言った。
 「漢の文帝は賈生を召して、夜半まで向かい合って話をしてましたが、民の事を尋ねずに鬼神の事ばかり尋ねて、後世大いに不評でした。陛下は臣を愚か者と見なさず、天下の大計を尋ねられました。臣はこれまで鬼神の事を学んだことはありません。」
 海陵王は言った。
 「そうであっても答えてほしい。永い間疑問で夜も寝付けない。」
 楊伯雄は仕方なく言った。
 「臣の家に一巻の書があり、人は死後も魂は生きると記されています。そこに記されている設問で『冥界の官人は何を以って罪を赦すのか』とあり、答えは『汝は暦を一冊用意し、日中の行いを夜中に記せ。書くべきでないことは行ってはならぬ』とのことでした。」
 海陵王は居住まいを正した。

 ある夏の日、海陵王が瑞雲楼に登って納涼し、楊伯雄に詩を詠むよう命じた。楊伯雄の作った詩の最後にはこうあった。
 「六月にはこれほどの蒸し暑さが来るとは思わなかった。寒気も同様あらゆることは予測できない。」
 海陵王は喜びながらこの詩を側近に見せると言った。
 「楊伯雄は何事かを言うとき朕を戒めることを忘れない。人臣とはこうあるべきだ。」
 
 二度昇進して兵部員外郎となり、父の喪に服して、復帰すると翰林待制兼修起居注となった。直学士に昇進し、更に昇進して右諌議大夫兼著作郎となり、修起居注はもとのままとされた。

 皇子の慎思阿不が薨去すると、楊伯雄は宿直していた同僚と共に私的に協議して処罰された。このことは「海陵王諸子伝」に記されている。

 海陵王が宋遠征を諮ると、楊伯雄は「晋の武帝は呉を平定する際、全てを将帥に任せました。陛下がわざわざ総指揮をする必要はありません。」と反対したが容れられず、起居注に降格となって、以後再び海陵王に拝謁することは無かった。

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ナントカ堂 2023/06/02 00:26

耶律阿保機の養子

『遼史』の列伝はwikiに多く記事がありますが、日本語の記事が無い人もあり、そのうち今回は王郁の伝を訳します。


王郁(列伝五)

 王郁は京兆の万年の人で、唐の義武軍節度使の王処直の庶子である。伯父の王処存が義武軍節度使となり、亡くなると、三軍は王処存の子の王郜を後継ぎとし、王処直は都知兵馬使となった。
 光化三年(900)、梁王の朱全忠が定州を攻めると、王郜は王処直を沙河に遣わして防戦させた。王処直は敗れると城に入り、王郜を追放した。王郜は李克用の元に逃れ、乱兵は王処直を擁立して留後とし、人を遣わして朱全忠に臣従した。朱全忠は李克用と断交していたため、王処直を義武軍節度使とした。
 初め、王郜が亡命すると、王郁はこれに従った。李克用は娘を王郁に嫁がせ、新州防禦使とした。
 王処直は「李克用は必ずや張文礼を討ち、張文礼が滅びれば、自分は孤立して危うい」と恐れ、密かに王郁を契丹に遣わして侵攻させ、李克用を牽制しようとした。同時に王郁を後継者と認めた。王郁は李克用の元に逃げて以来、常に父に嫌われていると思っていたため、この使命を受けて大いに喜んだ。
 神冊六年(921)、王郁は上表文を呈して契丹に帰順し、一族を挙げて来降した。太祖はこれを養子とした。まもなく王郁の兄の王都が父を幽閉して、自ら留後となった。太祖は王郁を皇太子に付けて討伐に向かわせた。定州に至ると、王都は固く守って城から出なかったため、住民を攫って帰還した。
 翌年、王郁は皇太子に従って鎮州を攻撃すると、後唐軍と定州で遭遇して撃ち破った。
 天賛二年(923)秋、王郁と阿古只は燕・趙を攻略して、磁窯務を下した。
 太祖が渤海を平定するのに従軍して戦功あり、同政事門下平章事を加えられ、崇義軍節度使に改められた。
 太祖が崩御すると、王郁は妻と共に葬儀に参列し、妻が淳欽皇后に「郷里に帰りたい」と泣いて訴えたため、皇后は許可したが、王郁は言った。
 「臣はもとは後唐の国主の婿です。国主は既に弒され、帰国すれば我ら夫婦は殺されるでしょう。太后の側に仕えることを願います。」
 皇后は「漢人の中で、王郁が最も忠孝である。」と言って喜んだ。太祖が以前に李克用と兄弟の契りを結んでいたからである。
 まもなく政事令を加えられ、宜州に戻り、亡くなった。

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ナントカ堂 2023/05/23 22:39

海陵本紀

『金史』の「海陵本紀」の初めの方を少し読んだら、海陵王は割とまともな事言っているな~と。


天徳二年十二月乙卯
 担当官が「慶雲が見えた」と報告すると、帝は言った。
 「朕に何の徳があって瑞兆があるというのか。今後、瑞兆は報告しないように。もし妖異ならば、朕への訓戒であるので報告せよ。朕は自省しよう。」

天徳三年正月甲午
 帝が御史大夫の趙資福に言った。
 「汝らの多くは、私情に流されて誰も弾劾せず、朕に取るに足らないことばかり言っている。今後は百官で法を破る者がいれば、必ずや弾劾し、権力者といえど憚ることの無いように。」

同月乙未
 帝が都から出て狩猟に行ったので、宰相以下が近郊まで見送った。このとき帝は馬を止めてこう訓戒した。
 「朕は惜しむことなく高い地位と手厚い俸禄を汝らに与えて職務を任せていたのに、近ごろ聞くところに拠れば、多くの政務が滞っているという。汝らは自分のことだけを考えて、民の事を思っていないのではないか。今後は朕がその勤怠を調べて賞罰を行う。各々職務に努めよ。」

同年三月己亥
 帝が侍臣に言った。
 「昨日は太子の誕生日で、皇后が朕に献上したもののうち一品が、大変良い物であった。卿も見ると良い。」
 そして袋から取り出すと、田家稼穡図であった。
 「皇后は『太子が宮中の奥深くに生まれ、民間の農作業の苦労を知らない』と考えて、これを献上したのだ。朕はこれを甚だ賢明だと思う。」

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