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ナントカ堂 2023/12/24 20:39

王綧の残りの二人の子

 ウィキペディアの「王綧」の項を見ると、その子の阿剌帖木児・闊闊帖木児・兀愛の三人の記述が見え、そのうち阿剌帖木児(王雍)については関連ページがありますが、闊闊帖木児と兀愛についてはページが無いので、『元史』巻百六十六 列伝五十三から以下に訳します。


 闊闊帖木児は即位前の武宗に入侍し、功労を重ねて太中大夫・管民総管となった。

 兀愛は兄の阿剌帖木児の職を継ぎ、金虎符を佩び、安遠大将軍・安撫使・高麗軍民総管・東征左副都元帥の地位を与えられた。
 二十四年(1287)に乃顔が叛くと、力戦してしばしば勝利した。更に月魯児那演に従って、蒙可山と那江で塔不歹と朶観大王を討った。
 兵五千あまりを率いて、八剌哈赤の脱観と黒龍江で戦った。右臂に矢を受けながらも、傷に堪えて戦い続け、敵を大いに撃ち破った。
 二十五年、哈丹禿魯干の討伐に従軍し、平章の闊里帖木児の麾下として多くの功を挙げた。
 十二月、賊軍の古都禿魯干が斡禿魯塞に到着すると、平章は兀愛を従えてこれを攻め、降伏させた。
 翌年、昭武大将軍・遼陽等處行中書省事を加えられた。
 その翌年、哈丹らが高麗の国境に攻め込むと、兀愛が派遣されて鎮守した。城壁を修復して軍規を引き締めたため、軍の威勢は大いに振るい、賊は遂には逃げ出した。
 九月、哈丹禿魯干が再び纏春を攻めると、兀愛は兵を率いて撃退した。
 二十八年、都に行って内殿で世祖に拝謁すると、戦功を嘉されて、帝の持ち物から玉帯と銀酒器を賜った。
 二十九年、東征左副都元帥府に転任すると、高麗女直漢軍万戸府を創設して、三珠虎符を授けられ、鎮国上将軍・高麗女直漢軍万戸府総管となり、瀋陽安撫使・高麗軍民総管を兼ねた。

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ナントカ堂 2023/12/16 12:00

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ナントカ堂 2023/12/12 21:11

中国に伝わった飛梅伝説

 「飛梅」とネットで検索してもこの内容の記事が見当たらなかったので、ここに書こうかと思います。

元代の王逢の『梧溪集』巻四の「寄題日本国飛梅」にこう記されています。


 国相の管北野なる者は剛正にして有為であった。庭には紅梅がありその優雅さを好んだ。ある日、讒言されて宰府に流されると、まもなく梅が夜中に飛んできた。北野は結局、配所で死んだ。国人は祠を梅の傍らに建てた。


 北野は北野天神からでおそらくは諱を避けたのでしょう。菅が管になっていますが、この程度の誤伝は正史でさえもよくあることで。

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ナントカ堂 2023/12/03 16:23

李愍(隋末唐初の宦官)

『両唐書宦官伝』から。『全唐文補遺』所収の李愍の墓誌の訳です。




 君の諱は愍、字は強、隴西の成紀の人で漢の飛将軍の末裔である。大業年間に元徳太子のもとに出仕して、雍州の新豊県に居を定めた。(元徳太子は煬帝の長男で早世)
 君は主に忠実に仕えたが、隋は徳を失い国中が戦乱に巻き込まれた。われらが太宗は民の塗炭の苦しみを見かねて自ら甲冑を身に着けて立ち上がり、自らに矢や石を受けながらも五年間戦い続けた。公は人物を見る目があったためこれに身を投じ太宗を助けた。
 東都の王世充や黎陽の李密らは所詮井の中の蛙であり、公は太宗の幕僚としてこれらを平定した。武徳元年(618、唐の初めの年)に太宗の東征に従い、策を立てて勲功第一となった。詔に曰く。
 「三川平定の際、強らが自らの命も顧みずに戦ったので敵を打ち破り勝利した。」
 そして上儀同となった。公はその後も寝食も忘れて戦い、五年には東郡を平定した。詔に曰く。
 「公らは敵をなぎ払い勝利を収めた。ここに功を賞して褒賞を賜る。」
 上大将軍となり、続いて内侍省寺伯に任命された。貞観元年(627、太宗即位の年)、太宗は配下として戦った旧臣の功労に報い、公は朝散郎・守内謁者監となった。十五年に内給事となり、十七年には上柱国を加えられた。
 公は代々越嶲に住み、酋長の末裔である。貞観年間に太宗が旧臣に南夷を慰撫させようと考えたため公が遣わされた。公は父老には親しく、下吏や豪族には厳格に接し、清廉な者には手を執って交流し、秩序を乱す者には法を以って正した。こうして西南にて成果を挙げ太宗から高く評価されたが、貞観二十三(649)年三月二十三日に病のため崇仁坊の邸宅で薨去した。享年六十二。先に死んでしまった良き友に太宗は哀悼し僚友は心を痛めた。


 晩年について良さげに書かれていますが、おそらくは軍功のある宦官を扱いかねて南方に追いやったのではないでしょうか。正史の類には大功ある李愍についての記述は残されていません。
 北魏の時代には封爵された者も多かった宦官ですが、唐初に宦官を押さえ込む方針が採られたため、以後玄宗の時代になるまでの百年間宦官はさほど目立った活躍は見られません。

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ナントカ堂 2023/11/29 22:06

清代の契丹人の末裔

『全訳契丹国志』を書いて早10年、私も歳を取ったものです。
で、その中から今回の表題に書いた清代の契丹人の末裔に関する記述を抜粋。




 清が中華に入り王朝を打ち立てると、契丹人の子孫はこれに従い、八旗として支配層の一員となりました。
 『続通志』巻八十二の「氏族略」二に「伊喇氏 その先祖は遼の国族」「舒穆嚕氏 その先祖は遼の后族」と記されていますが、清代においては耶律氏は伊喇氏または伊拉里氏を称し、蕭氏は舒穆嚕氏または舒穆禄氏を称しました。
 以下、清代に活躍した契丹人の子孫について、ここでは『清史稿』に伝のある代表的な人物だけ略伝を記しておきます。

伊拉里氏

和舜武(?~1820)
 山西巡撫として治水に功績を挙げる。山東布政使となったとき、山東の民が乱訴する風潮を改めさせた。(『清史稿』巻三百五十九)

増祺(1851~1919)
 盛京将軍として南下するロシアに対処し、張作霖を帰順させた。(『清史稿』巻四百五十三)

舒穆禄氏

揚古利(1572~1637)
 父の郎柱は庫爾喀部の長で早くに清の太祖に付いた。郎柱は部の者に殺され、揚古利は十四歳で父の仇を討ち、太祖に目をかけられた。常に最前線に立って戦い、たびたび多くの傷を負ったため太祖に注意された。数々の戦功を挙げて太宗の時代に一等公の上の超等公となった。(超等公は揚古利のみに授けられた)朝鮮遠征の陣で朝鮮の伏兵に狙撃されて卒去した。(『清史稿』巻二百二十六)
 子孫は塔詹(子)-愛星阿(子)-福善(子)-海金(子)-豊盛額(子)-豊安(子)-阿克東阿(子)-富克錦(子)-連成(子)-銘勛(連成の養子)と続き、光緒三十三年(1907)に銘勛の子の扎克丹が英誠公を継いだ。(『清史稿』巻百六十八)

愛星阿(?~1664)
 揚古利の孫。定西将軍となり呉三桂とともに南明の永暦帝を捕らえる。子の富善は康熙帝がジュンガル部を攻めたときに兵站を担った。(『清史稿』巻二百三十六)

冷格里(?~1634)
 揚古利の弟で数々の軍功を立てた。太宗が即位して八旗を指揮する八大臣が置かれ、弟の納穆泰がその一人となると、それを補佐する十六大臣の一人に選ばれた。納穆泰が城を捨てて退却すると、代わって八大臣に抜擢された。明を攻めて旅順を取った年の冬に発病し、翌年卒去した。(『清史稿』巻二百二十七)
 子孫は穆成額(子)-穆赫林(子)-四格(子)-吉当阿(子)-色克図(吉当阿の弟)-楊桑阿(色克図の兄の子)-舒崇阿(楊桑阿の弟)-楊桑阿(復帰)-賽炳阿(楊桑阿の弟の子)-舒勲(子)-瑞文(子)-奎文(瑞文の大叔父の孫)-貴文(奎文の弟)-毓順(子)-鍾斌(子)と一等子爵を続き、光緒三十一年(1905)に鍾斌の叔父の子の栄華がを継いだ。(『清史稿』巻百七十一)

納穆泰(?~1635)
 乳児のとき父が殺され、母に連れられて太祖の元に身を寄せた。軍功を挙げて八大臣に抜擢されるも、作戦の失敗により兵が壊滅して城を捨てたため、死を免れたものの免職となった。その後数々の軍功を立てて名誉を回復し三等梅勒章京(三等男爵相当)となり、三代世襲を許された。(『清史稿』巻二百二十七)

譚泰(1593~1651)
 揚古利の従弟。明討伐に数々の軍功を挙げて征南将軍となる。ドルゴンの信任を得て専横の行いが多かった。ドルゴン死後に一党の多くが誅殺されたが譚泰は処罰されなかった。しかし譚泰は今までに増して専横な振る舞いを続けたため、ついに誅殺された。(『清史稿』巻二百四十六)

譚布(?~1665)
 譚泰の弟。兄とともに戦い、李自成や張献忠討伐にも活躍して、工部尚書に昇進した。譚泰が誅殺されたときに、兄弟は連座しないとの詔が出されたが、工部尚書は罷免された。(『清史稿』巻二百二十七)

仏倫(?~1701)
 呉三桂の孫の呉世を討伐する際、兵站を担った。山東巡撫のときに労役の負担の不公平を是正した。文淵閣大学士になったが、かつて政敵を陥れたことを告発されて休職させられた。(『清史稿』巻二百六十九)

徐元夢(1655~1741)
 康熙帝、雍正帝に仕え、『明史』の総裁、『世宗実録』の副総裁として、編纂に従事した。(『清史稿』巻二百八十九)

舒赫徳(1710~1777)
 徐元夢の孫。監察御史のとき東三省の開発を建議した。金川・緬甸などの遠征に参加し、伊犂将軍として伊犂の宣撫に努めた。(『清史稿』巻三百十三)

老舎(1899~1966)
 『駱駝祥子』などを書いた文豪。文革により死去。


 伊拉里氏はそれほど揮いませんでしたが、舒穆禄氏は清代において満族八大姓に数えられるほどの譜代の重鎮となりました。清朝にとっての契丹とは、遠く過ぎ去ったロマンチックな過去でもなければ、同じ北方民族として清と重ね合わせて暗喩するものでもなく、ルーツの一つであり、重臣の先祖でもあるため、敬意を払うべき対象でした。
 なお満族八大姓には諸説ありますが、『清稗類鈔』『郎潜紀聞初筆』『清朝野史大観』によると以下の八氏族です。

瓜爾佳氏(金の夾谷氏の子孫)
鈕鈷禄氏(金の粘割氏の子孫)
舒穆禄氏(契丹の蕭氏の子孫)
納喇氏(金の拿懶氏の子孫)
棟鄂氏(伝承では宋の神宗の第十二子の越王の子孫)
馬佳氏(金の裴満氏と共通の先祖を持つ)
伊爾根覚羅氏(伝承では宋の徽宗・欽宗の子孫)
輝発氏(納喇氏の一族)

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