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2020年 01月の記事 (1)

ナントカ堂 2020/01/19 00:17

安東権氏

以前に根津美術館で「高麗仏画 香りたつ装飾美」という展覧会が開かれました。
詳しくはこちら↓をご覧いただくとして
http://www.nezu-muse.or.jp/jp/exhibition/past2017_n02.html
 このページの「阿弥陀如来像」の説明に
「銘文から、高麗の重臣・権■(日+旦)(クォンダン)が阿弥陀像を画師に描かせ、王の帰還を祈ったことが知られる。」
とあります。
 この権ダンの祖父の権守平の伝を『高麗史』巻百二から見ていきましょう。


 権守平は安東の人である。低い身分の出でその系譜は分からない。容姿に優れ温厚で実直であったため、いにしえ人の風格があった。
 隊正であったころ貧しく、郎中の卜章漢が罪無くして追われ隠れていたとき、権守平は卜章漢の田の祖を与えられた。
 数年後、卜章漢が赦免されて帰ってきた。権守平と卜章漢は面識が無く、田租は漕運に充てていた。権守平は袖から田租の帳簿を取り出すと卜章漢に渡そうとした。
 卜章漢は言った。「私が隠れている間、あなたは田租に手をつけなかったが、他の人なら使っていたはずだ。今、あなたはが私を憐れむなら田を返還しただけで十分であり、田租は不要である。」
 権守平は言った。「人の災難に乗じて田租を得るのは不義である。今や帰ってきたのになおも遠慮するのか。」
 そして帳簿を投げつけたが、卜章漢は受け取らずに家に入り門を閉ざした。権守平は帳簿に石を付けて家に投げ込んで去った。父老が感嘆して言った。
 「今は人と争って奪う風潮であるのに思いがけずもこのような人を見た。」
 牽龍軍の役職は地位は低いが王に目を掛けられるので、権貴の子弟は皆これになりたがった。権守平は隊正から牽龍軍の役職に就けられることになったが、家が貧しいことを理由に辞退した。旧知の者が言った。
 「これは栄達への道だ。多くが妻を替えて富を得ている。もし君が新たに富豪の娘を娶るというのであれば誰もが娘を差し出すだろう。」
 権守平は言った。「貧富は天運である。二十年連れ添った糟糠の妻を捨てて富豪の娘を求めるなどとは耐え難いことだ。」
 言った者は恥じ敬服した。
 累進して枢密院副使にまでなり、高宗三十七年に卒去した。子はイで翰林学士となり、その子のダンには別に伝がある。


 隊正から最後は枢密院副使となって高宗三十七年に没と、武臣政権期に低い身分からのし上がった武臣で、以前に挙げた金就礪の家系と同様に後世に残った家系です。
『高麗史』では、巻百七に子の権ダン以下、ダンの子の溥、溥の子の準、準の子の廉と適、廉の子の鏞、溥の子の皐、皐の孫の和と近の伝が、
巻百十に溥の子の王煦(王姓を賜った)、巻百三十一の叛逆五に溥の子の謙の伝があります。
 この一族は李朝においても栄え、現存最古の族譜である『安東権氏世譜』を遺し、wikiで「安東権氏」と検索すれば分かるように、文禄・慶長の役で活躍した権慄などを輩出しています。


 今回でCi-enでの高麗史については一旦終わります。
 なお、私が使った高麗史は西南師範大学出版社・人民出版社の版でこんな感じのものです。

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