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2019年 12月の記事 (6)

ナントカ堂 2019/12/29 15:47

『朝鮮実録』中の関が原の戦い記事

宣祖三十四年(1601)四月二十五日の記事の日本から戻ってきた姜士俊らの報告
大体あっているけど簿妙に違う


 戊戌八月十八日、平秀吉が病死した。その近臣の石田治部卿・増田右門丞・長束太蔵丞の三者に「汝らは幼子秀頼を補佐して、わが言いつけに背く事の無いように。」と遺言した。また内府家康なる者に「関東、北三十三州は汝が鎮守し、わが幼子を保つべし」、次に中納言輝元なる者に「関西、南三十余州は汝を首とす。わが幼子を託すので、謹んで後事を保つように。」と命じた。
 同年冬、清正や甲裴守らは、石田治部卿を深く憎み、秀吉の生前に自分達があまり重用されていなかったため、家康に阿附し、石田治部卿を江州佐祐城に追放した。
 己亥年夏、家康は更に秀頼の乳父の蒔田肥前州を加州に追放して自らは伏見城に入った。
 同年九月、秀頼が心配であるとの理由をつけて、家康は自ら秀頼の居所の大坂城に入った。これより大坂城を占拠して国政全般を壟断し、上下心が離れた。
 中納言景勝なる者は三州を領する将である。東北隅に在って、家康が秀吉に背いたことを深く嫌悪し離反しだした。家康は再三招致したが遂に帰服することは無かった。
 庚子九月、家康は兵五、六万を率いて、根拠地の越州能登に到着し、その子で三河守なる者が兵五、六万を率い、先鋒として景勝を攻めた。七戦五敗、降すことができなかった。
 石田治部卿らは、家康が秀吉に背いて国政を壟断していることを憎み、輝元が兵権を有して柔和なことを慕い、虚に乗じて入城するよう輝元に勧めた。
 こうして増田右門丞が副となって秀頼の居所に留まり、石田治部卿は、備前州中納言平秀家・小西行長・薩摩島主島津らの軍四、五万を率い、中路兵となって海州と濃州の境の大恒城に行って陣を敷いた。
 長束大蔵丞と安国寺の両名は群総となり、輝元の養子の芸州宰相秀元や龍蔵寺雲州侍従らの軍四万三千を率いて右路兵となり、伊勢州に行って津城と松塢城を攻め落とした。両城が家康に加担したためである。
 兵を濃州の関原に移すと、大田刑部卿が山口や玄蕃守らの軍七千を率いて左路兵となり、、越後州で防戦し、家康と共謀していた蒔田前州守の兵を追い払った。
 三路の兵は濃州の関原で集結して陣を敷き、家康が来るのを待った。
 輝元が既に大坂城に入ったと聞いた家康は、兵を出して応戦すると言い、自らの麾下の兵八万あまりを率いて、昼夜徹して濃州の青原に到着した。
 このとき黒田甲裴守なる者がいて、輝元の婿の筑前州中納言と輝元の従弟の雲州侍従と以前から知り合いであった。両名が内心では輝元の考えに反対だと知った甲裴守は、家康に密かにこのことを報せた。家康は甲裴守に離間させるよう命じた。筑前州中納言らは甲裴守の甘言を聞き入れ「九月十四日、そちらから不意に騎兵の精鋭を率いて出陣してください。われらは三路の兵の先鋒であるよう見せかけて、反転して関原を攻撃します。」と約束した。果たして家康はその通りにし、筑前中納言らも約束通りにした。
 日夜連戦し、関原三路の兵は大敗壊走して、秀家・大小刑部卿らみな戦死し、その他は全て四散した。
 家康は勝ちに乗じて長駆し、近江州の勢多橋に至ると、雲州侍従なる者を招き寄せて言った。「汝の従兄の輝元が開城して自ら退くならば命を助けよう。」輝元はその偽りを信じて、城を棄て本津に撤退した。
 同月二十七日、家康が再び秀頼の城に入り、増田右門丞ら叛逆者十数人を捕らえ、脅して腹を刳り貫かせ首を斬った。また石田治部卿・平行長・安国寺の三人は都を引き回して、京の東の橋頭に梟首した。
 輝元にはこう言った。「汝の罪は死に値するが、汝の愛妾と子の秀就を人質とするなら赦そう。」輝元は言われた通りにした。
 家康は人質を受け取ると、輝元の食邑八州のうち六州を奪い、脅迫して僧とした。
 景勝の兵は勢いを増し、近隣の賊酋で来附した者は六、七人に至った。家康の子の三河守なる者も父に背いて景勝に合流した。景勝は雪が消えるのを待って長駆と云々。これが家康の大いなる悩みとなった。また土佐侍従なる者が南京路に在って家康に逆らい、また薩摩侍従島津なる者が輝元の一党であった。
 家康は去年の十月の間に、孫婿の清正を将とした。清正は四万の兵を率いて島津と戦ったが、四回戦って全て敗れた。兵を退いて講和しようとしたが、島津は従わず未だ和議は成されていない。風聞では島津は兵船七十隻を造って、入唐すると公言しているという。
(以下略)

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ナントカ堂 2019/12/24 19:16

孔巖許氏

「金就礪の子孫」で金倫の外舅として出てきた許キョウ(王に共)は『高麗史』巻百五に伝があります。
『高麗史』には父の遂が枢密副使であったことのみ記され、祖父以前のことは記されていませんが
万暦五年(1577)に立てられた「許曄神道碑」(『朝鮮金石総覧』下p.790~795/「国会図書館デジタルコレクション」で閲覧できます)には
「按ずるに、許氏は金酒露王の妃より出る。鼻祖の宣文は、高麗の太祖が三韓を平定するのを補佐して孔嵓に領地を与えられ陽川の人となった。それから連綿と八代、キョウは・・・」とあり
万暦十年(1582)に立てられた「許琮神道碑」(『朝鮮金石総覧』下p.799~803)には
「遠祖の宣文が高麗の太祖の百済討伐に従軍して功があり孔巌村主に封ぜられた。八代前の祖のキョウは・・・」とあって
本人の墓誌((『朝鮮金石総覧』上p.464~467)には
曽祖父の利渉は典厩署丞、祖父の京は礼賓少卿・知制誥、父の遂は枢密副使・翰林学士承旨で、その子の冲の六代目の外孫であると記されています。
では『高麗史』巻百五の本伝を見ていきましょう。



 許キョウ、字はウン匱、初名は儀、孔巖県の人である。父の遂は枢密副使となった。許キョウは幼い頃から聡明で立派な風貌をしており、高宗の末に科挙に合格した。承宣の柳ケイ(王に敬)が許キョウ・崔寧・元公植を推薦したため三人とも内侍に属して政事点筆員となり、当時「政房三傑」と呼ばれた。
 国学博士に転じ、元宗の初年に閣門祗候となり、累進して戸部侍郎となり、神宗・熙宗・康宗の実録を編纂した。十年には右副承宣・吏部侍郎・知御史台事時となった。
 当時は林衍が権力を握っていて、子の林惟茂の妻に許キョウの娘をと望んだが、許キョウは断った。林衍が更に迫ったが、許キョウは断固断り、林衍はこの件を王に話した。王は許キョウを召すと言った。「林衍は凶暴である。怨まれればどうなるか卿は深く考えたほうが良い。」許キョウは言った。「たとえ災いが降りかかろうとも、臣は賊臣の家に娘を嫁がせません。」王はこれを義として「卿の良き様にせよ」と言った。許キョウは退出すると、娘を平章事の金セン(人偏に全)の子の金ヘンに嫁がせた。林衍はこれを深く怨んだ。
 林衍が金俊を殺すと、文武官の多くが殺された。許キョウはたまたま妻の葬儀のため陽川に行っていて、通津まで戻ってくると変事を聞いた。害される前に河に身を投げて死のうと考えたが、「死生は天の定める所である」と考え直して都に戻った。
 林衍は多くの朝臣を殺してしまったため、良い人材を選ぶ人がいなくなっていた。そこで側近に「許キョウは帰っているか。」と尋ねた。このことを知った許キョウが林衍の家に行くと、林衍は大喜びして迎え入れ、座らせると謝して言った。「私は有事のため葬儀に参列できませんでした。非礼をお許しください。」そして許キョウに人事を任せた。許キョウの人選が適材適所であったため、林衍は喜び、王に進言して、許キョウは多くの褒美を賜った。
 林衍は王を廃し、「王は病のため位を譲った」と偽って蒙古に報告した。蒙古ではそれが偽りであると知り、王を入朝させて直接事情を聞くと命じた。王は松站まで来ると、従臣に「東京行省に到着して林衍の廃立について尋ねられたなら、どう答えれば良いか。」と聞いた。許キョウと大将軍の李汾禧・将軍の康允紹らは、林衍の意向に沿って「書面で返答すべきです」と言った。
 ユ超は承宣のユ弘之の子で、もとは僧であったが、還俗して李蔵用の孫娘を娶っていた。李蔵用に同行して元に行くと、皇帝に気に入られようとしてこう訴えた。「高麗の承宣の許キョウ・上将軍の康允紹・将軍の孔愉は共謀して元の朝廷に叛こうとしています。」皇帝は不花に命じて許キョウらを逮捕させ、ユ超と対面させ弁論させると、ユ超は讒言であったことを認め、杖刑に処された。許キョウは簽書枢密院事に昇進した。
 忠烈元年に官制が改められると監察提憲を拝命した。許キョウはは政堂文学の尹克敏の娘を妻としていて、その没後に妻の弟の娘を家で養っていた。以前これを監察が弾劾していた。このため、新官制となって朝臣全員が新たな官職に就いたことを謝恩したが、許キョウだけは許されなかった。
 判密直・知僉議府事を歴任した。元の世祖が日本遠征軍を出すと、高麗王は都指揮使を各地に派遣して軍船建造を監督させた。許キョウは慶尚道に、洪子藩は全羅道に派遣された。洪子藩が半分も完成させられないうちに、許キョウは全て完成させて帰還した。洪子藩はその能力に敬服した。
 参文学事・修国史に昇進して韓康・元傅らと『古今録』を編纂し、僉議中賛を拝命した。
 十六年、王が元にいて、許キョウと洪子藩が留守を守った。哈丹賊が東の辺境に侵入を図ると、既に国内に入っているとの噂が流れ、内外が動揺した。
 洪子藩らは江華に避難しようと言ったが、許キョウと崔有エンだけは「今、王は大都にいる。噂を信じて無断で遷都するべきではない」と言って反対した。洪子藩らは耆老・宰相を集めて協議し、全員が遷都すべきであるとしたため、許キョウは制止することができず、書記官を呼んで「衆論がこうなったため阻むことができない。私だけ都に留まって守り、王命を待つ。」との発言を記録させた。諸宰相は皆こう言った。「人は許中賛を国家を鎮定する人物だというが、今や国を誤らせるか。」許キョウは家に帰ると子や孫を召して言った。「私はここに留まる。もし私に従わないのならば、わが子孫ではない。」まもなく印侯が元から遣わされて言った。「再び江華に遷都すると聞いた皇帝は王に言った。『それが事実なら首謀者を捕らえてつれて来い』と。」国中の人がこれを聞いて、許キョウの見識に敬服した。
 翌年、元が哈丹追討軍を派遣すると、許キョウもこれに応じて出陣し、連日馬から下りなかったため気の病となった。それでも数ヶ月間臥せらなかったため、八月になると重態となり、五十九歳で卒去した。諡は文敬。王は左司議大夫の金カンに命じて弔わせた。
 (中略)
 子は程・評・冠・寵・富で、程は東州事、評は後に嵩と改め検校政丞・陽川君となって没後に良粛と諡された。その子はソウ(りっしんべんに宗)である。

 許ソウは忠烈王によって宮中で育てられ、長ずると忠宣王の娘の寿春翁主を妻とした。許ソウは若い頃から富貴で、よく礼を守り人に施すことを好んだ。
 忠烈王の時代に守司空となったがまもなく辞め、皇帝の命で元に行き、三年間留められた。
 忠宣王の時代に守司徒・定安君となり、後に再び元に行ったが、父母を立て続けに亡くして帰国し、自ら隠棲した。そして毎日医術を以って人を生かすことに専念した。
 元にいた忠粛王に召されて大都に行った。このとき忠宣王が北から大都に戻り、許ソウの手を握ると泣いて言った。「私にはただ娘が一人しかいない。その娘が卿と二十七年間仲良く暮らしている。そこが私の気に入っている所だ。」そして多くの贈り物をした。
 忠粛王が帰国すると定安府院君に加封され、その後再び忠恵王に従って元に行き、五年間留められた。忠穆元年に翁主が亡くなると、悲しみのあまり病となり卒去した。
 


以下、附伝として冠・錦・富・猷の伝がありますが割愛。

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ナントカ堂 2019/12/17 19:45

洪彦博と洪倫

前回に引き続き洪彦博と洪倫です。


洪彦博(『高麗史』巻百十一)

 洪彦博、字は仲容、南陽府院君の洪奎の孫である。幼い頃から読書を好み文を得意とした。忠粛王の十七年に科挙に受かって王から厩馬一匹を賜った。
 (中略)
 奇轍を誅した功一等とされて十年に門下侍中となった。
 紅巾賊が都に迫ると、衆議は避難することに決したが、洪彦博だけは反対し、民と共に戦うよう王に進言した。まもなく西から、高麗軍が敗れたとの報せが入り、王は南に避難して、洪彦博はこれに従った。
 翌年、都を取り戻したが、その勝利には洪彦博の作戦による所が大であった。判密直事の宋卿が洪彦博に言った。「民は永い間、貴公が再び相となることを望んでいます。今の首相は何もできず、去年、賊が都を攻め落としたため天下の笑いものになっています。ご決断ください。今や貴公の子が府兵を握り、婿が監察の長となり、富貴は既に窮まって、国家に憂いは在りません。」洪彦博はこれを憚り、宋卿を罷免した。
 行宮では金銀が乏しくなっていたが、王は浪費していた。洪彦博が倹約するよう進言すると、王は洪彦博を凝視して何も答えなかった。洪彦博は退出すると言った。「言っても聞き入れられないなら放言も同然だ。」これを聞いた李斉賢は言った。「私が相であったときも常にそうであった。王の力となれなかったのが惜しまれる。」
 王は江華に遷都しようと、開泰寺の太祖真殿にて占わせた。人々は騒然とした。太后洪氏は洪彦博の伯母であったが、洪彦博と直接会ってこう責めた。「汝は外戚の権力者として冢宰の地位に在り内外に人望がある。今、王は遷都しようとしているが国中の人が望んでいない。汝はどうして諌めないのか。」洪彦博が諌言すると、王は言った。「私が決めるのではなく、占いにより決まるのだ」果たして不吉と出て、国中の人が喜んだ。
 (中略)
 十二年、王が都に戻ることになったが、出発が滞った。洪彦博が「準備は整っています。もし延期すれば農業の妨げになります。」と言うと、王は従った。紅巾乱入後、祭祀が乱れ孔子廟の祭祀も途絶えて祀られていなかった。成均の十二人が復活を求めたが、洪彦博は、内外多事であるのを理由に却下した。
 興王の変が起こると、子の洪師範が人を遣わし、避難するようにと伝えた。まだ朝早く、洪彦博は妾と寝所にいたが、これを聞くと自若として「食事をしてから避難しよう」と言い、粥を作らせた。賊の一党が洪彦博の家の門前に迫ると、門客が「賊は迫っているのにまだ起きないのですか。」と言った。門前に来た賊が「帝の命を持ってきた、出迎えよ。」と言い、家人が「賊は門前にいます。速やかに避難すべきです。」と言った。洪彦博は「賊と会って理由を問い質そう」と言い、遂に避難しなかった。子と妻が避難を勧めても拒み「首相となった者で死を恐れて逃げた者はいない。」と言うと、おもむろに衣冠を正し門外に出て「汝は賊であろう。何ゆえ帝の命と称すのか。」と言った。賊は洪彦博を斬り、血は屋根まで飛び散った。享年五十五。賊の中に興王がいて、洪彦博が死んだと知ると皆で万歳を唱えた。文正と諡され、礼を以って埋葬された。
 子は師普・師範・師禹・師エン(王に爰)である。
 師普は判閣門事となったが、子の寬の弑逆に連座して誅された。
 師範は知密直司事となり、大都に使者に行って帰りに風に遭い溺死した。恭愍王はこれを悼み特別に諡を賜った。

 洪師禹は恭愍王の時代に慶尚道都巡問使となって合浦に鎮守した。清廉で慎み深かったため、守から吏民まで畏愛した。倭寇が亀山県の三日浦に攻め込みと、洪師禹は行って撃破した。追撃すると賊は山に登ったため、洪師禹は四方から攻めて殲滅した。
 後に全羅道都巡問使となったが、子の洪倫の弑逆により杖で打たれた上で遠方に流され、まもなく遣わされた崔仁哲により、子の洪彝と共に陜州にて絞殺された。
 殺される直前、洪彝は泣いて崔仁哲に言った。「私は誅して父は赦してほしい。」洪師禹は言った。「私は既に老いている。老夫を誅しわが子を赦すよう願う。」そして「私は多くの倭寇を討ったが、その功は何にもならなかった。」と嘆くと父子相携えて死んだ。人々は皆これを惜しみ、全羅と慶尚の民は涙した。

 師エンは典書となった。

洪倫(『高麗史』巻百三十一/叛逆五)

 洪倫は南陽の人で侍中の彦博の孫である。
 恭愍王が美少年を選んで子弟衛を置くと、洪倫は韓安・権シン(王に晋)・洪寬・盧セン(王に宣)らと共に属し、淫猥を以って寵愛された。洪倫らは常に禁中に宿直し、一年中沐浴の休みを取ることもなかった。
 王は、洪倫らを諸妃嬪に通じさせて子を産ませ、跡継ぎにすることを望んだ。こうして益妃が身ごもった。
 宦官の崔万生が王に付き従って厠に行ったとき、密かに「臣が益妃の元に行くと、既に妊娠五ヶ月であると聞きました。」と報せた。王は「私は子ができないことで悩まされたが、もはや何の憂いも無い」と喜び、誰の子かと尋ねると、崔万生は「妃は洪倫の子と言いました。」と答えた。王は言った。「明朝、昌陵に拝謁し、偽って酒を飲ませて洪倫らを殺し口封じをしよう。汝もこの謀を知ったからには死んでもらう。」崔万生は懼れ、洪倫安らと共に謀議した。
 その夜の三更に寝所に入ると、王は大いに酔っていた。崔万生が自ら剣で頭を撃ち、脳髄は壁に飛び散った。そこへ権シン・洪寬・盧センらが滅多打ちにした。金興慶・尹セン・尹可観がこれを知り「賊が外から来た」と叫んだので、衛士は股慄して敢えて動かなかった。宰相以下多くが変事を聞いたが誰も駆けつけなかった。宦官の李剛達は寝所に入り血だらけの様子を見ると、「主上はまだお休みになっていない」と偽り、門を閉鎖して出入りを禁じた。夜が明けて太后が来たが、王の死を発表せず、百官も侍衛もいつも通りに勤務した。
 李剛達は王命として慶復興・李仁任・安師琦らを招集し、逆賊討伐を密議した。僧の神照が常に禁中にいて力も知略もあったため、李仁任は、神照が瀋王の子の脱脱帖木児と通謀して乱を起こしたと考え、牢に入れた。
 その後、崔万生の服に血痕があったため、捕らえて巡衛府で尋問すると、崔万生は全て白状した。洪倫らも尋問され、韓安と盧センは罪を認めなかったが、洪倫らの自白で罪は確定した。
 (中略)
 百官が市に会し、洪倫と崔万生は車裂き、韓安・権シン・洪寬・盧センとその子は斬罪となり、全員梟首となった。
(以下略)

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ナントカ堂 2019/12/14 17:06

洪奎

 金興慶は嬖倖伝に入れられていますが、金興慶と共に寵愛された洪倫は、恭愍王を殺害したため叛逆伝に入れられています。
 洪倫も金興慶と同様に功臣の子孫で、林惟茂を殺して武臣政権を終わらせた洪奎が高祖父です。
 以下に『高麗史』巻百六から洪奎の伝を見ていきましょう。


 洪奎、初名は文系、南陽の人で、父の洪縉は同知枢密院事であった。
 洪奎は生来恬淡寡欲で人と馴れ合わなかった。元宗の時代に御史中丞となった。
 林衍が死んで子の林惟茂が権力を引き継ぐと、洪奎は、林惟茂の姉の夫であったため、林惟茂は事あるごとに洪奎・宋松礼と協議した。洪奎と宋松礼は表向きは従っていたが内心は常に憤っていた。
 王が元から帰国しようとするのを林惟茂が拒んだため、内外騒然となった。
 王は李汾成を遣わして、密かに洪奎にこう伝えた。「卿は代々の高官の家の出である。情勢を見て義を結集し、社稷を利してこそ、先祖への面目が立とう。」洪奎は再拝すると李汾成に「明朝、府の門外で私をお待ちください。」と言った。
 そこで洪奎は宋松礼と計画を立て、三別抄を集めると大義を説いて味方につけ、林惟茂を捕らえて市で斬った。行宮にて王に拝謁し、世子に従って元に行くと、皇帝は錦袍と鞍馬を賜って功を称え、高麗にて一品職に任じられるよう命じた。このため左副承宣となった。
 しかし国事を見るに日に日に悪化していき、同僚も阿諛追従する者たちであったため、同席することを恥じ、願い出て辞職した。枢密院副使に昇進となったが辞退して受けなかった。このときまだ四十歳になっていなかった。
 忠烈王と公主は、良家の娘を選んで皇帝に献上しようと考えた。洪奎の娘も選ばれ、高官たちに賄賂を贈ったが免れなかった。
 洪奎は韓謝奇に言った。「私は娘に剃髪させようと思うがどうだろうか。」韓謝奇は言った。「貴公に難が及ぶかもしれない。」洪奎は聞かず、結局、娘を剃髪させた。
 公主はこれを聞くと激怒し、洪奎を捕縛させると○問させて家財を没収し、娘も捕らえて尋問させた。娘は言った。「私は自分で髪を切ったのであり、父は何も知りません。」公主は娘を地面に固定させると、鉄鞭で乱打し、全身隈なく打ったため、娘は父がやったことだと認めた。
 宰相が言った。「洪奎は国に大功があります。微罪で重刑に処すべきでは在りません。」中賛の金方慶も、病を理由に赦すよう求めたが容れられず、洪奎は海島に流された。まもなく洪子藩が強く求めたため家産は返還されたが、公主の怒りは解けず、娘を元使の阿古大に賜った。翌年、都に呼び戻されて僉議侍郞賛成事・判典理司事となり、致仕した。このとき王が教書を賜った。「(これまでの感謝の内容、略)」
 後に中賛致仕を加えられ、続いて判三司事・守司徒・領景霊宮事とされ、忠宣王の初年に僉議政丞・益城君・知益城府事、忠粛三年に推誠陳力定安功臣・南陽府院君・商議僉議都監事となり、卒去して匡定と諡された。
 子は戎、娘は一人、明徳太后である。

 洪戎は忠粛王の時代に三司使となった。後妻は万戸の黄元吉の娘で、美しかった。洪戎は常に閨房を閉め、親戚であっても会うこと許さなかった。
 洪戎は忠恵王の舅となった。洪戎の没後、内竪の崔和尚が黄氏の美しさを褒めたため、忠恵王は夜中にその家に行き私通した。王は金銀器・綵帛・紵布・米・豆を賜り、黄氏もまた家で宴を開いて王を迎えた。王は罹患中で、王が行った先々の婦人は多くが淋病となった。黄氏もまた病となったため、王は医僧の福山に命じて治療させた。
 戎の先妻は密直の羅裕の娘で、子はシュ(さんずいに樹のつくり)・彦博・彦猷の三人。黄氏の子は子は二人、一人は彦脩で、もう一人の名は記録に無い。
 シュは僉議商議・三司右使・南陽君にまで至り、忠恵王の後三年に卒去した。毎日酒に酔い、蓄財や名利は考えなかった。彦博には別に伝がある。彦猷は重大匡・南陽君、彦脩は検校参知門下府事となった。

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ナントカ堂 2019/12/08 12:40

金興慶/恭愍王と同性愛

 金就礪一族の最後は、『高麗史』巻百二十四 嬖倖二から金興慶ですが、その前に。

 松原國師氏の<図説>ホモセクシャルの世界史に


 新羅を滅ぼした高麗のいく人かの王も男色を好み、美男子を宮中に囲った。中でも一番名高いのは恭愍王の「子弟衛」であろう。恭愍王は少なくとも五人以上のお気に入りの若者を「子弟衛」に任じて、君側に侍らせ性愛の相手としていた。(p.370)


とありますが、この子弟衛について
『高麗史』巻四十三の恭愍王二十一年冬十月甲戌朔条に

 子弟衛を設置し、年若く美貌の者を所属させ、代言の金興慶にこれを統括させた。これより洪倫・韓安・権シン・洪寬・盧センらを寵愛して、常に寝室に侍らせた。
 王は生来色を好まず、公主が生きていたときも後宮に行くことは希であった。公主が薨去すると、諸妃を後宮に入れてもそれぞれ別宮に住まわせて日夜近づかず、公主を想っては悲しみ、遂には心の病となり、常に自ら婦人のように化粧した。
 先に後宮の下女に布で顔を覆わせ、金興慶や洪倫らを召すと乱交させて、王は隣の部屋の穴から覗き見ていた。そして心動かされると、洪倫らを寝所に引き込み、男と女であるかのように営んだ。それが数十人交替してようやく止んだ。
 この日より、王は日が暮れてから起き、あるいは意に適った者には多大な褒美を与えた。王は跡継ぎがいないことに悩み、洪倫や韓安らに諸妃を強○させ、それで男子が生まれて自分の子とすることを望んだ。定妃・恵妃・慎妃は死を賭して拒んだ。
 後に益妃の宮に行ったとき、金興慶・洪倫・韓安らに益妃と通じさせようとしたが、益妃は拒んだ。王が剣を抜いて斬ろうとしたため、益妃は懼れて従った。これより金興慶らは王の命と偽って何度も宮を行き来した。

とあり、巻四十四の二十二年春正月乙丑条に

 人事があって頭裏速古赤と子弟衛は全員異例の昇進をした。卿大夫の子弟で若く美しく壮健な者は常に禁中に侍り、頭裏速古赤と号した。子弟衛と共に寵愛された。

同年十月乙亥条に

 王自ら正陵を祀り、酒宴を催して楽しみ、夜になって陵の前に泊まった。百官が軍装をして付き従い、子弟衛はみな紅衣を着て黒い馬に乗り先導した。


とあります。
では金興慶伝を簡単に見ていきましょう。


 金興慶は侍中の金就礪の曾孫で、頭は良いが誠実さは無かった。
 恭愍朝に選ばれて于達赤(親衛隊)となった。
 王は金興慶を見ると喜び、内速古赤(近習)として寵愛した。常に寝所に侍り、一度も休沐を許されず、数月間で異例の昇進をして三司左尹となり、左右衛上護軍に転じ、日ごとに寵愛が深まっていった。

(権勢を笠に着ての横暴な振る舞いが列挙されていますが略)

 恭愍王が弑されて辛グが即位すると、右司議の安宗源・門下舎人の金濤・補闕の林孝先・正言の盧嵩・閔由誼らが上言した。「(以下弾劾文、略)」
 辛グは処分を保留したが、台省が再三処分を求めたため、金興慶は彦陽に流されて除名され、家財没収となった。他も全員免官となった。
 洪倫らが謀叛を企てていると聞いた呉献は、これを金興慶に報せたが、金興慶は「洪倫らは王に寵愛しているため王は信じず、却って自分が殺される」と恐れ、他に言わなかった。
 謀叛が起こると、呉献は詳細を崔瑩に話した。崔瑩は呉献を、金興慶の配所に遣わして対面させた。
 金興慶は言った。「乳臭い奴め。私が先王に推薦したのに、却って私に噛み付こうというのか。」
 呉献は言った。「私が洪倫らの謀叛の計画を貴公に告げたのは、恩に報いようとしたからだ。」
 金興慶は答えることができず、遂に誅された。

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