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2016年 10月の記事 (9)

ナントカ堂 2016/10/05 21:25

涇原の将

曲珍はその伝が『宋史』巻三百五十がある、前記の苗授・劉仲武・郭成と同時期に取り立てられた人物で、代々の隴干の有力氏族として西夏の侵攻を食い止めました。『宋史』巻三百六十九に伝のある曲端は、この曲珍の一族と思われます。
父の曲渙は曲端が三歳のときに戦死し、曲端はその後学問を身につけて西夏の侵攻をよく食い止め軍功を挙げていきました。朝廷の命のままに戦っていた曲端の状況が一変するのが建炎元年、金は開封を攻め落とした後、陝西の地にも侵攻してきました。ここに曲端は敗残兵や流民を受け入れて保護し、副将の呉カイ(玉へんに介)と共に金を撃退して郷土を守り抜きます。その後、南宋の朝廷から派遣された王庶が陝西の総司令官となりますが、金の攻撃から陝西の地や民を守りぬくことを第一と考える曲端に対して、南宋の朝廷のために民や兵を犠牲にしてでも撃って出ようとする王庶とは次第に対立していくことになり、ついには王庶は追われる形で都に逃げ戻りました。
その後、陝西の総司令官として張浚が赴任してきました。このころ金が陝西に攻め込んできたため、曲端はこれを彭原店で迎え撃ちますが、緒戦で副将の呉カイの軍が勝利したのに曲端が援軍を送らなかったため敗退、呉カイがこれに抗議したところ、逆に曲端から、命令に背いて守るべき場所を守らなかったと責められ、以後、曲端と呉カイは対立していきます。そして張浚が出兵を計画したところ、「現在、金の勢いが盛んなため、十年間は軍備を整えるべき」と曲端に反対されました。このため張浚は先の彭原店の敗戦を理由に曲端を遠方に流してから戦ったところ惨敗しました。この敗戦でも善戦したのが曲端の訓練した兵たちで、改めて曲端の力を知った張浚は、曲端を呼び戻そうとしますが、「曲端を再び登用することで張公の立場は危うくなるでしょう。」と呉カイから告げられた張浚は、改めて曲端の制御しづらさを思い出し、さらに謀反を企んでいると王庶が讒言するにいたり、曲端は投獄されました。張浚は、以前に曲端に鞭打たれて怨んでいた康随を尋問官とし、曲端は○問にかけられて殺されてしまいました。まもなく張浚は更迭されましたが、陝西の人心は南宋の朝廷から離れてしまいました。

曲端を排除して、現地の将としてはトップとなった呉カイですが、劣勢に立たされて蜀の地に逃れ、その地に半独立勢力を打ちたてたのはよく知られているところです。呉カイとその麾下及び付いて行った一部の兵は蜀に逃れて支配者となりましたが、陝西の地に残された民と留まった兵たちを取りまとめたのが、『金史』七十九に伝のある張中孚です。人々により総大将に推戴された張中孚は、金に降伏するにあたり上手くかけ引きを行い節度使・知州・経略安撫使となってこの地の統治を任されました。金の傀儡国家の斉が建てられると、斉領内では過度な負担が掛けられ逃亡する者が相次ぎましたが、周囲が心配する中、張中孚はこれを無視して自領内では施行せず、しばらくして斉は統治能力無しとして廃され、陝西だけは搾取されずに済みました。その後、参知政事・尚書左丞・南京留守などになり、宿王や崇王などの一字王に封ぜられるほど金の朝廷から重んじられ、民からも慕われて、葬儀の日には数万人が見送り、その日には市が閉められるほどでした。その弟の張中彦も吏部尚書や南京留守を歴任して善政を行い、没後に像を作られて祀られるに至りました。
これに対して『金史』の論賛では、張中孚と張中彦について、民へのわずかな恩恵は称賛すべきかもしれないが、宋の重臣でありなおかつ父を金に殺されていながら不倶戴天の敵である金に仕えるとは云々と非難しています。
岳飛のように土地から切り離されてている兵を纏め上げてひたすら朝廷に忠誠を誓うというのは格好いいものですが、曲端や張中孚・張中彦はその地に根ざした兵とともにあり、その地が金領であろうが宋領であろうが住む人間の暮らしが守られればよく、そのためには朝廷の意向も聞き流すという生き方も十分評価されるべきだと思います。

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ナントカ堂 2016/10/05 21:24

神宗時代登用者

仁宗の時代にチュウ氏や狄青などを登用して、弛緩した軍の立て直しを図った朝廷では、神宗の代になってからも新たに武将を登用しました。その中で前項の姚氏のほか、苗授・劉仲武・郭成の一族が目覚しい活躍をしました。

まず初めに苗氏について見て行きましょう。
『宋史』巻三百五十の苗授伝には、苗授の父の苗京が慶暦年間に西夏の侵攻から麟
州を守って死んだとあり、それ以前は不明ですが、孫の苗傅について、『宋史』「苗傅伝」では上党の人とあり、同じく上党の人で『旧唐書』巻百十三や『新唐書』巻百四十に伝のある、唐の玄宗の時代の苗晋卿の一族が宋になってからも地元に勢力を有していて、これを郷土防衛として取り立てたものではないでしょうか。
苗授とその子の苗履は数々の軍功を挙げましたが、『宋史』本伝には、苗履が天武都指揮使になった後について「是後史失其傳」とあり後半生については記録が残されていません。他にも様々な事跡の記録が靖康の変前後の混乱で失われたのでしょう。
苗履の子の苗傅については『宋史』巻二百三十四の「叛臣伝」に収められています。苗傅自身は元豊年間に殿前都指揮使となっており北宋の朝廷では重きを置いていましたが、宋朝南遷後は、地方の司令官の私兵に過ぎなかった王淵が高宗に重用され、自身はその下風に立たされました。さらに王淵が宦官らと組んでは略奪など好き放題に振舞うに至ってこれに反感を持ち、よくある謀反人が名目上で掲げるのとは異なり、本心から君側の奸を除こうとして王淵を討ち、さらにその一党を討とうとしましたが、これが高宗との決定的な対立となり、叛臣として滅ぼされてしまいました。

劉仲武は同じく『宋史』巻三百五十に伝がある人物で、西夏を防ぐのに功があり、保静軍承宣使や瀘川軍節度使を歴任し、没後に少保を追贈されるほど評価されました。その子の劉錡は『宋史』巻三百六十六に伝があり、むしろこの劉錡の方が岳飛と並ぶ抗金の名将として有名で、長江沿いに駐留して金の攻撃を良く跳ね返し、没後は呉王を追贈されて、現在でも劉王廟に祀られています。

郭成も同じく『宋史』巻三百五十に伝があってよく西夏を撃退しました。子の郭浩は「郭成伝」にも紹興年間(1131~1162)に西辺の大将となったとあり、『宋史』巻三百六十七の「郭浩伝」にその活躍が記されています。


苗傅は、混乱した朝廷が対応を誤らなければ、都に在って朝廷の守護者となりえた人物で、劉錡と郭浩は金の侵攻から江南の地を守りきった名将。神宗の時代に撒いた芽が良く実ったと言えましょう

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ナントカ堂 2016/10/05 21:21

山西巨室

「山西巨室」と呼ばれた山西の大勢力がチュウ(のぎへんに中)氏と姚氏です。

宋も仁宗の時代になると、建国当初から続く武将の家も次第に凡庸な者を輩出するか文官に転換するかして使い物にならなくなっていきました。さらに西夏の勃興により西北が脅かされるようになると、折氏だけでは対抗しきれなくなります。そこで仁宗は信任するチュウ世衡を内々に派遣してこの地に根を張らせることにしました。『宋史』巻三百三十五は全てこのチュウ世衡と子・孫の記述に当てられており、その重要性が見て取れます。
チュウ氏が世に知られるようになったのはチュウ放からで、吏部令史の子のチュウ放はたびたび推挙を受けながらも、世捨て人のように暮らして固辞し、一時給事中となったもののすぐに辞めて隠遁生活を送っていました。チュウ世衡はチュウ放の兄の子で、蔭位により出仕した人物で、地方官となると権力におもねらずに適切に処罰を行ったため一時期左遷されましたが、その気概から朝廷でも支持する者が多く復帰して地方官を歴任しました。西北の守りが手薄となっていたので自ら志願して赴き、廃墟を建て直して青澗城を築き、屯田と交易を行って自前で兵と食糧・金銭を調達してその地に勢力を打ち立てました。族長の奴訛と面会の約束をした日に大雪が降り、誰もが行くのは無理だと引き止める中、世衡は信義を守るために出発し、絶対に来ないであろうと思い寝ていた奴訛はこれに感じ入って服属するようになりました。知略と武勇に優れるほかに、病になった兵がいると自分の子を遣わして看病させたので兵たちも心服していましたが、范仲淹の命により病を押して細腰城を築き、完成と共に没しました。
その子の諤・誼・樸も青澗城にあってよく西夏の進攻を食い止めました。
孫の師道が老齢となったころ、金が南下してきたため兵権を委ねられ、金軍を撃退しましたが、これに油断した朝廷は、不要となったとばかりに師道から兵権を取り上げて遠方の守備に単身で送り出してしまいました。再び金軍が攻め寄せ、官軍が撃破されると、朝廷は慌てて師道を呼び戻しますが、老齢のため途中で病となり没してしまいました。欽宗は開封陥落後に「チュウ師道の言うことを聞かなかったからこうなったのだ。」と嘆きました。
師中は師道の弟でこちらも兵を率いて金軍相手に善戦しましたが頼みとしていた兵糧が届かずに飢えていたところに金軍の総攻撃を受けて力尽きて戦死、ここにチュウ氏は宋に殉じて滅んでしまいました。

もう一方の姚氏について『宋史』巻三百四十九の「姚ジ(凹の下に儿)伝」に姚ジとその弟の麟、子の雄、孫の古の事績が記されています。
姚ジは父の姚宝が定川の戦いで戦死すると右班殿直・環慶巡検に任じられ、初陣で西夏の主将を矢で討ち取って壊滅させたのを初め目覚しい軍功を立てて通州団練使・フ延総管に昇進し、弟の麟、子の雄、孫の古もよく西北の地を守ったので朝廷に認められ、この地に勢力を張りました。
ここにチュウ氏と姚氏は山西巨室と呼ばれ並び立つようになりましたが、両家は対抗意識が強く、金が南下した際、
欽宗が防衛軍の将としてチュウ氏を上席に置くと、姚氏はこれに反感を持って、何かと作戦に齟齬をきたすようになり、これが宋軍壊滅の一因となりました。
チュウ氏は奮闘して討ち死にしましたが、その一方で姚古は兵を失って自分だけ逃げ、これが朝廷の怒りを買い広州に配流、ここに姚氏は勢力を失って没落していきました。
『宋史』本伝の記述はここで終わっていますが、『渭南文集』巻二十三に「姚平仲小伝」として、姚古の従子で養子となっていた姚平仲について記されており、靖康元年(1126年)に金に敗退した姚平仲は山中に逃亡し、淳熙年間(1174~1189)に八十歳になってから人前に姿を現したと記されています。

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ナントカ堂 2016/10/05 20:26

王継忠

『玉壺清話』にこうあります。

真宗が開封尹であったころ、街にいる鉄盤で占う盲人を呼んで、張耆、夏守贇、楊崇勲などの側近たちに声を出させて、盲人にどのような風貌の者かを言い当てさせて楽しんだ。当たる者もいれば外れる者もいたが、王継忠に当たったときだけ盲人は大いに驚いてこう言った。「この人は不思議な方だ。半分は漢の禄を、半分は胡の禄を食むことになる。」と言った。真宗は笑って送り返した。王継忠はその後、観察使・高陽総管となった。咸平六年、契丹が都に迫ったので、王継忠はは契丹と戦った。夜になるまで戦って、敵の騎兵に数十重にも取り囲まれ、戦いながら移動して、近くの西山に急ぎ逃れようとしたが、白城まで来たところで敵の手に落ちた。真宗はこれを聞くと、みな戦死してしまったのであろうと大いに嘆き哀しんだ。景徳の初め、契丹から和睦を申し入れてきた。その文書の起草には王継忠も加わり、和睦に向けて大いに尽力していた。朝廷はこのときになって王継忠が生きていることを知った。後に毎年使者が遣わされるたびに、真宗は手づから薬を包みに入れて王継忠に送った。王継忠はこれを受け取ると、漢の徽章を身につけてはるか南方の朝廷を望み、「臣はいまだ死んでおりません」と哭して拝礼し、契丹人の目も憚らず、伏せたまま使者に真宗の近況を尋ねた。王継忠はその人徳と威儀により、契丹の朝廷から妻を迎え、呉王に封ぜられて、耶律に改姓した。契丹の地で没すると、人々は、蕃の手に落ちた王氏と呼んだ。

王継忠の伝は『宋史』巻二百七十八と『遼史』巻八十一にあり、宋には懐節・懐敏・懐德・懐政、遼には懐玉という子がいたようですが、『宋史』と『遼史』は互いにばらばらに編纂したために、『宋史』には「いつ死んだかは判らない」とあり、『遼史』には「太平三年に致仕して卒去した。」とあるのを初めとして齟齬が見られます。
後代の金と宋の関係に比べ遼と宋は感情的にはさほど憎しみあってなかったようで、王継忠のように、契丹にあって両国の間を取り持とうという人物が好感を持たれていたようです。
『宋史』巻二百七十八には「王継忠伝」の続きにこう記されています。

即位前から真宗に仕えていて取り立てられた者は王継忠の他には、王守俊が済州刺史、蔚昭敏が殿前都指揮使、保静軍節度、テキ明がメイ州団練使、王遵度が磁州団練使、楊保用が西上閣門使・康州刺史、鄭懷德が御前忠佐馬歩軍都軍頭・永州団練使、張承易が禮賓使、呉延昭が供備庫使、白文肇が引進使・昭州団練使、彭睿が侍衛馬軍副都指揮使・武昌軍節度、キン忠が侍衛馬軍都虞候・端州防禦使、カク栄が安国軍節度観察留後、陳玉が冀州刺史、崔美が済州団練使、高漢美が鄭州団練使、楊謙が禦前忠佐馬歩軍副都軍頭・河州刺史、となった。

前項の王継昇でも太宗に仕えた人物が登用されたと記しましたが、真宗の代でもこの他に上記の張耆・夏守贇・楊崇勲など多くの側近が重臣として取り立てられました。

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