投稿記事

2015年 12月の記事 (1)

ナントカ堂 2015/12/05 17:57

洪武帝のお忍び

今回は事の真偽は置いておいて、とりあえず全部本当のこととして話します(まあ、雑談なので)

『明史』巻百三十七の「羅復仁伝」にこうあります。

太祖はお忍びで羅復仁の家に行ったところ町外れの奥まったところにあり、その家は壁がぼろぼろであった。太祖が来たので、羅復仁はあわてて妻に木の切り株を持ってこさせ帝に座らせた。帝は「賢士がどうしてこのようなところに住んでいるのか。」と言い、城内に邸宅を賜った。

また『翦勝野聞』にこのような話があります。

太祖はお忍びに行く際は市の裏手を行くことを好んだ。ちょうどとある国子監監生が酒場に入ろうとしていたので、太祖はこの監生に拱手の礼をするとこう尋ねた。「先生もこの酒場で飲むのですか?」監生は言った。「故郷を離れて、慰みとして食事を取るために来たのだ。」太祖が一緒に酒場に入ると満席で、ただ供司土神を祭っているところだけが少し空いていた。太祖は監生を連れてその前に来て、「神様、私たちが座るのでしばらく譲ってください。」と言って監生と対面して座った。それから太祖は監生に出身地を尋ねた。監生は「四川の重慶府だ。」と答えた。そこで太祖は「千里為重、重水重山重慶府(千里とは距離が幾重にも重なっている。水も重なり山も重なり「重」慶府)。」と歌った。監生はこれに応じて「一人成大、大邦大国大明君(一人一人が集まって膨大となる。それが大きな邦となり国となって大明の主君のものとなる。)」と歌った。そこで太祖がいくつかの木切れを取り出してこれをネタに詩が作れるかと言うと、監生は「木切れは元は斧が木を切ったときに出来たもの。それと同じく私も取るに足らぬものだが、いずれ立派な人間になる。いつか御史台の末席にでも連なったなら、人々の間に不平を失くすつもりだ。」と詠んだ。太祖は内心喜び、同席した縁として酒場に二人分銭を払い、互いに分かれて去った。監生はそれが太祖だとは知らなかった。翌日、監生は突然皇帝に呼び出されて拝謁することとなった。監生は茫然自失としたまま拝謁の場まで来てみると、太祖が笑って「秀才よ、昨晩天子と向かい合って座ったのを覚えていないのか?」と言った。監生が惶懼して非礼を謝ると、太祖は「汝は御史台の末席に連なりたいと言っていたな。」と言って、按察使に任命した。金陵の民家で今に至るまで供司土神を祀っているのは、このことからである。

お忍びで出かけるのが好きなのでしょうか、徐達の家にはよく行っていたようで、同じく『翦勝野聞』にこうあります

太祖はお忍びで出かけるのを好み、そのたびに徐太傅(徐達)の家に寄った。ある日、太傅が重病となり、太祖は前触れも無く訪れた。太傅は枕元の敷布の下から一振りの剣を出して、太祖にこれを示して言った。「戒めよ、戒めよ、もし他人が同様の機会を得たなら、あなたは殺されていたでしょう。」以後、太祖は諸功臣の家に立ち寄ることは無かった。

まあこれらは良いんですが、同じく『翦勝野聞』に

太祖がお忍びで都を歩いていると、ある老婆が太祖のことを「老頭児」と呼んでいた。太祖は激怒し、徐太傅の家に着くと、部屋の中をぐるぐる歩き回り、ぶつぶつ言って止まなかった。このとき太傅は外出中で、夫人は太祖の様子に恐れおののき、何か思う所があるのではないかと懼れて、稽首再拝して「わが夫の徐達が陛下に何かしてしまったのでしょうか?」と言った。太祖は「そうではない。嫂(姉さん)、気にするな。」と言うと、急ぎ使いを出して五城の兵馬司に諸軍を率いて来るよう命じ、集まると「張士誠は江東の片隅に蟠踞していたが、呉の人間はいまだに張王と呼んでいる。今、朕は天子であるのに、この地の住民は朕を老頭児と呼んでいる。これはどういうことだ。」と言った。こうして多くの者が家財没収された。

こんな人がそこらへんうろついてたら迷惑だわ(笑)
というか、お忍びであちこちに行っていいるということは、あの残されている肖像画はどちらも似てなくて、見る人が見れば只者ではないように見えるけど、凡人の目からは普通のおっさんなんでしょうか

この記事が良かったらチップを贈って支援しましょう!

チップを贈るにはユーザー登録が必要です。チップについてはこちら

月別アーカイブ

記事のタグから探す

限定特典から探す

記事を検索