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2015年 01月の記事 (5)

ナントカ堂 2015/01/02 14:14

崇禎帝の最後(下)

崇禎帝はこのような人物であり、見捨てられても仕方の無い人物ですが、それでもなお明朝には忠義者がいました。



王承恩は先にも書いたとおり京城の内外を指揮していましたが、ここに『明史』巻百九十三より、王承恩の伝を訳します。



王承恩は太監の曹化淳名の部下で、累進して司礼秉筆太監となった。崇禎十七年三月、李自成が宮城に迫ったので、帝は王承恩に京営の統括を命じた。このとき、すでに明の命運は尽きており、守備兵はわずかしか残っていなかった。賊は西直・平則・徳勝の三門から飛梯を架けて攻め寄せた。王承恩は、賊が城壁を壊そうとしているのを見て、急ぎ鉄砲を連射し、続けざまに数人を倒した。しかし各部署から自分を守ろうと少しずつ兵が逃げ出していた。帝は王承恩を召すと、速やかに宦官を集めて親征するための準備をするよう命じた。夜仲に内城が落ち、夜が明けようとするころ、帝は寿皇亭で崩御した。そこで王承恩はその下で自ら首を吊った。福王のときに忠愍と諡され、清朝になると六十畝の土地を賜り、その忠義を顕彰する祠が建てられ、亡き主君の陵の側に埋葬された。



王承恩は宮城守備の指揮官で、崇禎帝の命により逃げる準備を進めていたところ、事態が急転して逃げ切れないと思った崇禎帝は一人で自害。これを朝になって見つけた王承恩が後を追って自害ということで、世に言う話とは少々異なります。

では崇禎帝が招集をかけたのに重臣が来なかったという話はと言えば



李自成が宣府を攻め落とし、戦火は都にまで迫ってきた。帝に南へ行幸するよう勧めようと言う者がいて、閣議が行われた。范景文は「人心を結束させるためには都を堅守して援軍を待つだけです。この他の手立てを臣は知りません。」と言った。都城が陥落すると、范景文は宮門に駆けつけたが、そこの宮人に「陛下の一行は出発されました。」と言った。そこで重臣たちの集まる建物へ向かおうとしたところ、すでに賊に道を塞がれていた。従者が、服を変えて邸宅に戻るべきだと進言すると、范景文は「陛下の一行が出発してしまったのだ。私にどこに帰れと言うのか?」と言い、道の傍らにあった廟に遺言を書き残し、さらに「わが身は大臣でありながら、賊を滅ぼして恥を雪ぐこともできず、死して心残りあり。」と大書し、演象所まで来ると陵墓を遥拝して辞し、双塔寺の傍らの古井戸で死んだ。范景文は死んだときでもなお、崇禎帝が南へ行幸したと思っていたのである。(『明史』巻二百六十五「范景文伝」)



これは工部尚書の范景文の伝ですが、通常でも北京は広大で宮廷に駆けつけるのも距離があり、そこへ李自成軍が入って交通は分断され、宮門に行っても情報は錯綜しており、また崇禎帝自身が重臣を遠ざけるようにしていたので、万一のときには側仕えの宦官はすぐに来れても、重臣はなかなか駆けつけられなかったのです。ただ、この『明史』巻二百六十五は崇禎帝に殉じた人のうち主だった人を載せており、他にも地方にあって勤皇のために戦った人も多く、決して明朝は不忠者揃いとはいえません。


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ナントカ堂 2015/01/02 14:07

崇禎帝の最後(上)


崇禎帝の最後は

崇禎帝が重臣を緊急招集したが、既に人心が離れて誰も参集せず、宦官の王承恩ただ一人がはせ参じただけであったので、絶望して、王承恩を従えて山に行き、首を吊って自殺した。

という話が流布していますが、これは大筋では合っていますが細部は面白く作った講談の話です。



確かに崇禎帝は仕え甲斐の無い暗君です。



袁崇煥を殺したのは良く知られるところですが
陳新甲がせっかく清と和議をまとめたのに、これが政争の具になったとき、陳新甲が昔の功績をもって反対派を黙らせようとしたところ、崇禎帝はこれに腹を立てて殺してしまい、清との最後の和睦の機会が失われました。



『崇禎実録』巻十五の崇禎十五年七月丁丑条の皇貴妃田氏の薨伝に



帝が武英殿で半月斎戒したときのこと、にわかに後宮に行きたいと思ったが、皇貴妃田氏はこれを断った。そこで太監の曹化淳は江南の歌姫数人を進上したので、曹化淳は大いに目を掛けられるようになった。妃は帝にこれを強く諌めた。



とあります。崇禎帝はこのように人に取り入ることしかできない人物(宦官なのでそれが本分であり、後宮の仕事だけしている分にはそれで良いのですが)を寵遇して後に首都防衛の一方の軍の指揮官にしてしまいました。




同じく『崇禎実録』巻十五の崇禎十五年九月戊子条には



帝が良家の娘を採って九嬪に当てるよう命じた。給事中の光時亨が賊が平定されたから行うよう求めたので、帝は中止するよう命じた。



とあります。このときすでに李自成に各地を攻め落とされているのですから、そんなことくらい光時亨に言われるまでも無く分かりそうなものを一体何を考えているのやら。



崇禎帝が宦官を重用したことは『明史紀事本末』には巻七十四を「宦侍誤国」として一巻を使って非難しています。
その主な事項だけを取り上げると



崇禎二年:司礼監太監の沈良佐と内官太監の呂直を九門と皇城門の指揮官、司礼太監の李鳳翔を忠勇営と京営の指揮官に任命。



四年:太監の張彝憲に戸部と工部の金銭と食糧を統括させ、唐文征に京営の軍政を任せた。王坤を宣府、劉文忠を大同、劉允中を山西に行かせ、兵糧の供給を監督させた。
工部郎中の孫肇興が張彝憲の不正を弾劾。崇禎帝は怒って孫肇興を罷免。



五年:工部右侍郎の高弘図が、もともとの長官と監督の宦官と二系統から指示があって現場が混乱するので是正を進言。高弘図を追放して再び官職に就けないようにした。
司礼監太監の曹化淳に京営の軍政を任せた。
南京礼部主事の周ヒョウが宦官の弊害を告発。周ヒョウを追放して再び官職に就けないようにした。
司礼右少監の劉労誉に九門の警備を指揮させた。



六年:大学士の周延儒と左副都御史の王志道が王坤の不正を弾劾。両名を追放。
太監の陳大金・閻思印・謝文挙・孫茂霖を各鎮所に派遣。知県がその収奪に苦しみ自殺。



七年:太監の曹化淳に世襲錦衣衛千戸、袁礼・楊進朝・盧志徳に百戸の地位を与え褒美を賜る。
司礼監太監の張従仁を内官監として九門警備を任せる。
中軍の張元亨と崔良用を西寧に派遣して軍の監督と馬の交易を行わせた。総理戸工二部司礼太監の張彝憲を司礼監提督とした。
乾清宮太監の馬雲程に京営の軍政を任せた。南京守備太監の胡承詔と張応朝を呼び戻し、司礼太監の梁洪泰と内官太監の張応乾に共同で南京を守備させた。
太監の高起潜の弟を蔭位として世襲の錦衣衛中所正千戸を授けた。

九年:司礼太監の曹化淳に裁判を任せた。
清軍が居庸関まで来たので、中軍の李国輔に紫荊関、許進忠に倒馬関、張元亨に龍門関、崔良用に固関を守らせ、勇衛営太監の孫維武と劉元斌に馬水沿岸を守らせた。
司礼太監の魏国徴に天寿山を守らせ、まもなく。魏国徴を宣府の総大将とし、昌平京営御馬太監の鄧良輔と共同で守備させた。太監の鄧希詔に中酉二協を監視させ、太監の杜勲とともに守備させた。
崇禎帝が閣臣に「宦官はすぐに出発するが、兵部右侍郎は三日経っても出発しない。これでどうして朕が宦官を用いることに異議を挟むのか。」と言った。
司礼太監の盧維寧が天津・通州・臨清・徳州の総大将となり、中軍太監の孫茂霖と共同で守備した。
崔秉徳が援軍を求めたが、総監の高起潜水は進軍せず、清軍が通り過ぎてから進んだ。
司礼監太監の孫象賢を南京に派遣して、張彝憲と共同で守備させた。
都を守った功績として、太監の張国元と曹化淳の親族に世襲の指揮僉事を賜った。(虚偽の報告による)
太監の劉元斌の親族に錦衣衛百戸を授けた。御馬太監の陳貴に大同・山西の総大将として、牛文炳と共同で守備するよう命じた。御馬太監の王夢弼が鄭良輔と共同で宣府と昌平を守備することなった。
曹化淳に後軍都督府左都督を加え、世襲の錦衣衛指揮僉事を授けた。
御馬太監の李名臣に京営巡捕を統括させ、王之俊をその副とした。司礼太監の曹化淳に東廠を統括させた。分守津・通・臨・徳総理太監の楊顕らを収奪のひどさのため捕らえられ家産を没収された。



十年:司礼太監の曹化淳、杜勲らに京営を指揮させ、孫茂霖に薊鎮中西三協を鎮守させ、鄭良輔を総理京城巡捕とした。



十一年:御馬太監の辺永清に薊鎮西協を守備させた。

十二年:東廠太監の王之心と曹化淳の親族に錦衣衛百戸を授けた。
司礼太監の張栄に九門を警備させ、王裕民に京営を指揮させた。朝廷の人士が午門と端門を通るときには宦官に挨拶することとなった。
内官監太監の杜秩亨に九門警護を指揮させた。



十五年:司礼太監の斉本正を東廠の長官、王承恩を勇衛営の指揮官とした。



十六年:内官監太監の王之俊に京城の巡捕と練兵を統括させた。
司礼太監の王承恩に京営の軍政を任せ、韓賛周に南京を守備させた。
前大学士の周延儒が追放されてもなお宦官を弾劾したため、帝の怒りを買って自害を命じられた。



十七年:李自成が宣府を攻めたので、太監の杜勲がこれを迎え入れて降伏した。李自成が居庸関に来ると、太監の杜之秩が出迎えて降伏した。司礼太監の王承恩は京城の内外を指揮して、前太監の曹化淳らを呼び出し諸門を分担して守備させた。
太監の杜勲が城壁に登って、守備兵に向かって、降伏すれば富貴は思いのままであると降伏を呼びかけた。
太監の曹化淳が開門して降り、崇禎帝は自殺。



曹化淳を初めとして崇禎帝お気に入りの宦官は、永楽帝のころの宦官とは違い、実戦経験の無い者たちなので、戦えと言う方が無茶な話であり、重臣を粛清しておきながらこれらを重用するとは滅ぶべくして滅んだようなものです。


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ナントカ堂 2015/01/02 13:55

方孝孺の話が出たので疑問を少々


方孝孺関連の話はどこまで信用していいのやら。

方孝孺の書いたものは処分されたといわれていますが、今現在、浙江古籍出版社から『方孝孺集』が出されており、活字にして1024ページ、およそ厳しく取り締まられていたとは思われません。



『明史』巻百四十一の「方孝孺伝」を見ると、方孝孺一家は妻の鄭氏と中憲・中愈の二人の息子が首を吊って死に、二人の娘が秦淮河に身を投げて死んだとあるので、どうやら身柄を拘束されていたわけではなさそうです。
また父の克勤の弟の克家の子である孝復が、すでに別件で処罰されて慶遠衛の守備兵として流されており、軍籍にあったので連座を免れたと記されていますが、十族皆殺しなのに従兄弟がいるかどうかを漏らすのもおかしな話で、また、万暦十三年に方孝孺に連座して辺境の兵として流された者の子孫千三百人あまりを赦免した。ともありますが、「滅十族」ならこの人たちは何か?という話です。「族滅」ではありませんが、「夷滅」という言葉、『史記』「呂后本紀」に「今皆已夷滅諸呂」との語句があり、呂氏を一人残らず殺したという意味です。『国朝献徴録』巻六十八の胡閏の伝に「宗族夷滅謫戌者甚衆」との文があります。宗族を「夷滅」したのに多くの者が辺境の兵として流されるというのは、およそ明代では「夷滅」が宗族を解体してしまうことを指すと思われ、飛躍といわれそうですが、「族滅」もおそらくはそのような意味で使われていた気がします。だからすでに宗族の絆から切り離されていた孝復には何ら処分が無かったのではないでしょうか。

明代の粛清は酷だったといわれます。確かに、大乱まで起こっていながら大友皇子の子の葛野王や藤原仲麻呂の兄弟が配流もされずに官人になっている日本と比べれば酷過ぎでしょう。ただ数万人が死罪になったとなるとその記述がちょっと大げさな気がします。



ここで代表的な粛清事件の胡惟庸の獄について見てみましょう。




『明史紀事本末』巻十三には



「磔於市。並其党御史大夫陳寧、中丞ト(さんずいに余)節等皆伏誅、僚属党与凡万五千人、株連甚衆。」(訳:(胡惟庸が)市で磔となり、同時にその一党である御史大夫の陳寧や中丞のト節らはみな誅された。部下や関与した者はおよそ一万五千人、芋づる式に連座した者ははなはだ多かった。
陳寧やト節らが誅されたことと連座者が多かったことは、一旦途中で切れていて別々の内容です。陳寧らは誅されましたが、一万五千人は処罰されたのでしょうが殺したのかどうかはここだけでは不明です。それが『明史』の巻三百八「胡惟庸伝」になると
「帝発怒、粛清逆党、詞所連及坐誅者三万余人。」と、人数が倍になります。その上、「詞所」つまり「『連座者と誅された者が三万人あまり』と記されている。」ということで、『明史』を書いた人間が、とある本に書いてあるとして責任逃れのような書き方をしています。恐らくは、清朝が初期に多く殺しすぎたので、「なんだ、明朝だって多く殺してるじゃないか。」と思わせるために、なるべく悪く書いてある記述を採用させ、史官がいやいや書いたのでこのような記述になったのではないでしょうか。『明史』巻百二十七の「李善長伝」に、太祖自ら筆を取って李善長の罪を列挙した詔を作成したとありますが、『明史』よりも史料価値の高い万暦年間成立の『皇明異典述』の「誅公侯二特詔」には、「明朝では藍玉のような勲臣・大将を誅するに、詔により天下に示したことは無く、詔を頒布したのは、忠国公の石亨と太傅・咸寧侯の仇鸞だけである。」とあります。これなどは後世の例から見て、太祖の頃も同じだったのだろうと考えて作ったことでしょう。

『明史紀事本末』巻十三に洪武二十三年に逆賊として天下にその名を公布された人が挙げられていますがそれは



李善長、胡美、唐勝宗、陸仲亨、費聚、顧時、陳徳、華雲龍、王志、楊璟、朱亮祖、梅思祖、陸聚、金朝興、黄彬、薛顕、毛驤、陳万亮、耿忠、于琥。



です。

これらのうち、胡美は後宮に勝手に出入りして乱していた人物で、これは処刑されても仕方ないかと思われます。毛驤は錦衣衛の長官で、部下で次の長官となった蒋カンに陥れられたのでしょう。唐勝宗は後に無罪が分かり、太祖が廟を建てましたが、おそらくは遼東で信望が厚かった為にこの機に始末されたのでしょう。陸仲亨は官用の伝馬を私的に濫用して、太祖に「平和になってやっと民が暮らしを取り戻そうとしているのに、苦しめるようなまねをして」と激怒され、費聚は酒色に耽り職務を放り出して叱責され、両名とも手柄を立てることで免罪とするとのことでしたが、結局手柄を立てられずに、胡惟庸と陰謀を立てるようになったと言われます。陸仲亨については『明史』ではただ殺されて家財没収になったと書かれていますが、費聚については、「ついに胡惟庸の一党として死に、爵を取り上げられた。子の超は方国珍討伐の際に戦死した。センは才能があったので江西参政に登用された。孫の宏は、雲南遠征に従軍して軍功を積み右衛指揮使となったが、奏上に不実記載があったので、金歯地方の守備兵とされた。」(『明史』巻百三十一)とあり、処罰が本人死刑と爵位没収止まりで一族が連座していないようなのです。その他に、陳徳・華雲龍・王志・楊璟・薛顕については爵位を取り上げられたとだけあるので、恐らくはそれ以上の処分を受けていないと思われます。また以前にも述べましたが、金朝興などは、本人が既に死んでいたので子の金鎮が公爵没収と平ハ衛指揮使に降格。後に軍功を重ねて、金鎮自身は正二品の都指揮使で、子孫は世襲の衛指揮使(正三品)とのことで、 もう手に入らないであろう公爵を取り上げられたのは痛手でしょうが、復権の機会を与えられて、ある程度は挽回したようです。

主要人物二十名に含まれる金朝興の子がこのくらいの処分であるのに、果たして何万人も連座して殺されるものなのでしょうか?何万人というのは降格処分を含めての数なのでは。


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ナントカ堂 2015/01/02 09:19

「建文朝の奸党」


方孝孺もあそこまで我を張らなければ黄福のようになったのでしょうか?



『明史』巻百五十四「黄福伝」



黄福、字は如錫、昌邑の人である。洪武年間に太学生から金吾前衛経歴となった。国家の大計を論じたものを上書して、太祖に認められ、特別に工部右侍郎に起用された。建文帝の時代に深く信任された。永楽帝が奸党二十九人を列挙したが、黄福もそれに含まれていた。永楽帝が都に入ると、黄福はこれを出迎えた。李景隆が奸党であるとして黄福を指差した。黄福は言った。「臣はもとより死は覚悟しておりますが、ただ奸党とみなされることには納得がいきません。」帝はそれ以上追求せず復職させ、まもなく工部尚書を拝命した。永楽三年、陳瑛が、黄福は工匠に十分手当てを出していないと弾劾した。そこで北京行部尚書に改められた。翌年、法に触れて、詔により投獄されて、その後、事官に左遷された。後に復職し、安南の兵糧輸送を監督した。



安南が平定され、郡県が設定されると、黄福は尚書として布政司と按察司の政務を執るよう命じられた。このころ安南の地は平定されたばかりで、まだ戦争中のような雰囲気で、政務が多忙であった。黄福は随時規則を定めたが、全て理に適っていた。黄福はこう上疏した。「交阯では税に軽重があり一定ではありません。そこで現状を見て極力軽いほうの基準に合わせて税額を定めることを願います。」またこう願い出た。「瀘江の北岸から欽州まで衛所と駅を設置して交通の利便を図り、この水路を使って塩を輸送し、商人に交易させて粟を買い付け、兵糧や軍の各種の需要に当てましょう。また官吏の俸給は、倉庫の粟では足りないようなので公田より支給すべきです。」またこう言った。「広西の民が食糧を輸送するのに、陸路が険しく困難です。そこで広東より海運で二十万石輸送して給するよう命じられるべきと思います。」全て実行された。そして黄福は民を戸籍に登録し、税額を定め、学校を立てて官が任命した教師を置いた。しばしば父老を招いて帝の思し召しを説き、属吏には民を苦しめることの無いよう戒めた。こうして安南では全てが鎮まり、全ての者がおとなしく従うようになった。このころ群臣で微罪により交阯に流された者が多かったが、黄福は全員を援助し、そこから賢者を選んで共に政治を行った。この地に来た者は都に戻れたかのごとく感じた。鎮守中官の馬騏が帝の寵愛をよいことに民を虐げた。黄福はたびたび介入してこれを抑えた。そこで馬騏は、黄福に謀叛の志ありと讒言した。帝はその訴えが虚偽であると察し、採り上げなかった。洪熙帝が即位すると都に呼び戻され、詹事を兼任して太子を補佐した。黄福は交阯にいること十九年、都に戻ることになって、交阯人は互いに連れ立って見送りに駆けつけ、分かれるに忍びず号泣した。黄福が都に戻ると、交阯では賊が勢いづき、鎮めることができなくなった。洪熙帝が崩御すると献陵の造営の監督をした。



宣徳元年(1252)、馬騏の暴虐のために交阯が再び叛いた。このとき兵部尚書として陳洽が黄福と交代していたが、陳洽はたびたび黄福を交阯に戻して慰撫させることを願い出ていた。ちょうど黄福が命により南京に来ていたので、宮中に呼び出してこのような敕を下した。「卿は永い間交阯の人を愛し恩恵を与え、交阯の人も卿のことを偲んでいる。そこで朕は再び卿を遣わすこととする。」そして工部尚書兼詹事はそのままで、交阯の布政使・按察使とした。しかし黄福が到着したとき柳升は敗死していたので、黄福は急いで戻ることにした。鶏陵関に到着したとき、黄福は賊に捕らえられ、自殺しようと考えたが、賊は皆で整列して拝礼し、黄福の前で「公は交阯の民の父母です。公がこの地を去らなかったなら、われらは叛乱を起こすことはありませんでした。」と言って、自殺しようとするのを必死で止めた。黎利はこのことを聞いて、「中国は官吏を遣わして交阯を統治したが、全員が黄尚書のようであったなら、私は反乱を起こしはしなかったであろう。」と言い、急ぎ人を遣わして護衛させ、白金と食料を贈って、肩輿に乗せて国境まで送り出した。龍州まで来ると、明の官吏から没収した物を黄福に返した。都に戻ると行在工部尚書となった。



四年(1429)、黄福は平江伯とともに漕運を監督した、そして平江伯と協議して、江西・湖広・浙江と長江の南北の諸郡の民に対し、その地の遠近を考慮にて、粟を淮・徐・臨清まで運ばせ、衛所の兵士がそれを受け取って北京まで輸送することにしたので、民への多大な便宜となった。五年、兵の食糧を十分としながら民の負担を減らす要点を説いた。それはこうである。「永楽年間には北京を造営し、南は交阯、北は沙漠に遠征しましたが、国費が窮乏することはありませんでした。近頃では国家において大規模に費用がかかることは無く、毎年の支出はわずかなものですが、不幸にして水害や旱魃が起こったり、遠征の必要ができたらどう補填しましょうか?そこで操船の予備や営繕を行っている兵士十万人に、済寧以北、衛輝・真定以東を、黄河に沿って屯田させることを願います。初めの年は税を取らず、翌年から一人あたり五石を納めさせ、三年後から十石納めさせるのです。そうすれば京倉からの食事分六十万石と、所属する衛からの給料百二十万石が省ける上に、毎年二百八十万石の収入が得られます。」帝はこれをよしとして、戸部と兵部に協議させた。郭資と張本がこう言った。「黄河沿いの屯田は実に必要とされることです。そこでまず五万頃を用地として確保し、附近に住む民五万人に開墾させることを願います。ただ山東では近年旱魃と飢饉が起こり、避難民が最近になってやっと戻ってきたところで、衛所の兵は今、多くの役目に追われているところです。まずは官僚を派遣して現地を視察させてから開墾を行うべきです。」帝はその意見に従った。吏部郎中の趙新らに屯田の運営を命じ、黄福が全体を統括することなった。その後、「兵にも民にも各々以前からの生業があり、もしこの他に開墾まですることになれば、より一層の負担となるでしょう。」との意見が出たので、結局、この事業は行われなかった。黄福は戸部尚書に改められた。



七年、帝が内宮で、黄福の書いた『漕事便宜疏』を読み、出てきて楊士奇にこの書を示してこう言った。「黄福の言葉は思慮深く将来のことをよく考えている。六卿の中で同程度の者は誰か?」楊士奇が答えた。「黄福は太祖の知遇を受け、実直にして決断力があり、ひたすら国家のことのみを考えていました。永楽の初め、北京に行部が設置されると、黄福は民の困窮を救い安心させ、交阯に遣わされると、辺境の守りとして整備し、ともに実績を挙げました。これは実に六卿の及ぶところではありません。黄福は七十歳になりますが、年下の後から仕えた者たちと共に宮中で政治を行い、四代に仕えた旧臣でありながら、朝から晩まで奔走して苦労をかけています。これでは国家として老人を労わり賢人を敬う道に反していることになります。」帝が言った。「汝に聞かなければそのような知らなかった。」楊士奇がさらに言った。「南京は国家の根幹に関わる重要な地で、先帝は跡継ぎとしてここで監国となっていました。黄福は老成して実直なので、南京を治めさせれば臨機応変に対処して信頼して任せられるでしょう。」帝は「その通りだ。」と言った。翌日、黄福は南京の戸部尚書に改められ、翌年、南京の兵部の政務も合わせて執ることとなった。正統帝が即位すると少保を加えられ、南京守備の襄城伯の李隆の軍事に関わる重大事について補佐することとなった。南京に駐在する文臣が軍事の重大事を補佐するようになったのは、黄福より始まったものである。李隆が黄福の意見を採り入れたので、政治が厳粛になり民は安心した。正統五年(1440)正月に卒去した。享年七十八。



黄福は礼儀をよく修めて、余計なことを言ったり笑ったりすることが無かった。六代にわたって仕え、多くの建白をした。公正で清廉にして寛大、人からよく信頼された。官職にあっては目立つことは無かったが、細かいところまでないがしろにすることはは無かった。歳を取るごとにますます家のことを捨て置いてまで国のことを考えた。自ら倹約を心がけ、妻子には衣食をわずかしか与えず、俸禄のほとんどは、賓客や親戚が困窮したときのために取っておいた。以前に永楽帝が重臣十人を書き出して解縉に評価させたところ、黄福はただ「正直な心を持ち決して揺るがない。」とだけ記されていたが、その評価をわずかたりと落とすことは無かった。黄福が南京で李隆の補佐を務めていたとき、李隆の脇に座っていた。楊士奇はこれを聞いて「どうして少保の地位にありながら脇に座っているのですか?」と言った。黄福が言った。「どうして少保だからといって補佐される守備の方が譲らなければならないのでしょうか?」結局、黄福は脇に座り続けたが、李隆は黄福にはなはだ恭しく接し続けた。李隆は公務が終わると、黄福に上座に座るよう勧めたが、黄福はこれもまた辞退していた。楊士奇が墓参したとき、南京を通りかかり、黄福が病気であると聞いて、立ち寄って見舞った。黄福は驚いてこう言った。「公は幼主を補佐して、一日も側近くを離れるべきではないのに、どうしてこのような遠方まで来られたのか。」楊士奇はその言葉に深く感服した。兵部侍郎の徐琦が安南への使者として赴いた帰りに、石城門外にいた黄福と会った。ある者が、黄福を指差して安南からの同行してきた者に対して尋ねた。「汝はこの立派な人を知っているか?」その者が答えた。「安南では草木ですら公の名を知っている。どうして私が知らないわけがあろうか。」黄福が卒去したとき諡が追贈されず、士の間では大変不評であった。成化の初めになって太保が追贈され、諡を忠宣とした。


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ナントカ堂 2015/01/02 09:17

あけましておめでとうございます

あけましておめでとうございます。
今年もよろしくお願いいたします。

さて今年の予定ですが
今仕上げにかかっているものが一つありまして、今年の上期には出来上がり予定です。
もう一つありまして、こちらはおおよその史料は集まったのですが書くほうは手付かずで、今年中に出来ればいいなと思っています。
ほかに何もしないでこれだけやってれば『契丹国志』とかも2ヶ月もかからないのですが、仕事に追われてそうも行かないものでして(汗)
どうか永い目で見てやってくださいませ。

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