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2014年 11月の記事 (1)

ナントカ堂 2014/11/03 18:08

餓死は事極めて小なり。失節は事極めて大なり。

上の言葉は北宋の儒学の大家である程頤の発言で、「寡婦が再婚してはいけないと言うけれど、再婚しなくては生活できない場合はどうなるのですか?」と尋ねられて、餓死は些細なことで操を守ることが大事、つまり再婚するくらいなら死んでしまえというわけで、そんな極端なことを言ってるから程頤先生は定職に就けなかったんだよ(笑)
時代を追うごとに、寡婦が操を守ることは顕彰されましたが、わざわざ顕彰するということは珍しかったんでしょう。私もそれはそれでえらいことだとは思いますが、そうかと言って再婚した人が非難されるいわれは無いわけで。清代に書かれた『寄園寄所寄』には『応庵随録』からの引用としてこう記されています。



泰和の楊文貞公の父は早くに逝去した。母の陳氏は徳安同知の羅子理のもとに再婚して、大司成の羅璟の祖父に当たる羅京を生んだ。後に羅子理は遼東に流されて死んだ。文貞公は十二歳になると母と羅京を養った。永楽の初めに、文貞公は内閣大学士となり、陳氏はこれよりたびたび位を追贈されて一品夫人となった。また文貞公は継父への恩返しのため、羅京を兵士の藉から外して泰和の戸籍に戻した。宣徳年間(1426~1435)、贈礼部尚書の張公鑑が卒去し、妻の楊氏は遺腹の子の文質・字は允中を生んだ。すぐに再婚したので、祖母の王氏が育てた。正統壬戍(1442)、張文質は進士となった。継父はすでに卒去していたので、母を迎えて、異父弟妹を養った。成化年間(1465~1487)、楊氏もまた太夫人に封ぜられた。文貞公の母と張文質の母では行いが違うのに同じく位を贈られた理由は不明である。明朝で、再婚した母が夫人に封ぜられたものは、わずかにこの二例だけである。



上記の楊文貞公は三楊と呼ばれ、明代の絶頂期と呼ばれた仁宣の治を主導した一人である楊士奇のこと。羅子理は羅性のことで『明史』巻百四十に伝が立てられ、微罪で(棗の木で軍服を染めたとかいうちょっとよく分からない理由)流されてもからも、地域の人に学問を教えた徳行の人。羅璟も明史』巻百五十二に伝が立てられ、弘治の中興といわれる弘治帝の太子時代の師。張文質は工部尚書や礼部尚書を歴任した人物。これらの人は母が再婚したからとか寡婦を娶ったからとか言って特に非難されたことはなく、文末にわずか二例と但し書きがあるものの、楊士奇の母などは、一品夫人というこれ以上無い地位を追贈されているわけで、朝廷でもよくぞこれだけ立派な人を育ててくれたもんだと考えて、再婚したとかそういうことは気にしていなかったのでしょう。


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