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2014年 09月の記事 (13)

ナントカ堂 2014/09/19 02:04

明代の名門(3)

明では基本的に文官には爵位は与えないものですが、劉基くらい活躍すると貰えるようです。
そこで劉基の子孫について『明史』巻百二十八から



(劉基の)子は璉・璟である。



璉、字は孟藻、文才があり、洪武十年(1377)に考功監丞・試監察御史を授けられ、のちに江西参政として出向した。太祖は常に璉を重用しようとしていたが、胡惟庸の一党に脅されて井戸に身を投げて死んだ。璉の子はタイ(薦から草冠を抜いた字)、字を士端といい、洪武二十四年(1391)三月に伯を嗣いだ。食禄は五百石。以前に基の爵位は停止されそれが孫の代まで及んでいたが、ここに至り帝は基の功績を追想し、また基父子がともに胡惟庸のために死んだことを憐れみ、禄を増すよう命じて世襲を許した。翌年、罪を問われて禄を減らされて郷里に帰り、洪武の末に罪に問われて甘粛の辺境守備兵となって、まもなく赦免されて都に戻った。建文帝も永楽帝もともにを登用しようとしたが、タイは親の墓を守り祀るとして固辞し、永楽年間(1403~1424)に卒去した。子の法は爵位継承を停止された。景泰三年(1452)、基の子孫を登用することとなり、法の曾孫の禄を世襲の五経博士とした。弘治十三年(1500)、給事中の呉士偉の進言により、禄の孫の瑜を処州衛指揮使とした。
正徳八年(1443)、基は太師を加贈され、文成と諡された。嘉靖十年(1531)、刑部郎中の李瑜が、基を高祖の廟に配祀し、中山王の徐達のように世襲の爵位に封ずるよう進言した。帝が廷臣に協議を命じ、全会一致でこう進言した。「高祖皇帝は賢者・豪傑を集め、あるとき功臣を一堂に集めて遠い先のことまで見据えた意見を述べさせました。そのうち帷幄にて奇謀を立て、中原を治める大計を立てたのは、往々にして基によるものです。ゆえに軍中にあっては張良になぞらえられ、伯となってからは諸葛亮に例えられました。基が亡くなってから、孫のタイが嗣ぎましたが、太祖はたびたび招いては教え諭し、鉄券と丹書を与えて、禄を世襲させると誓いました。タイが嗣いでまもなく、太祖は崩御されると、タイの子孫への世襲を取り上げられ、永遠の誓いは空言となりました。ある者は跡継ぎが幼く孤児で貧しいため爵位が負担だから除かれたのであろうと言い、ある者は永楽帝が即位して忠誠を疑われたからであろうと言います。一時期名誉を損なわれ、多くの誤った伝聞がなされましたが、その積み重ねた業績は政府の記録に記されております。そのむかし武王が旗揚げをして天下の心はこれに帰したのに、成季の子孫がいないことは、君子の嘆くところです。基を太祖の廟に配祀して、その九代目の子孫の孫に伯爵を継がせて世襲とすべきです。」帝はこれを裁可した。瑜が卒去すると、孫の世延が嗣いだ。嘉靖の末(1566)、南京振武営に兵乱があり、世延は右軍都督府事を纏めてこれを慰撫し静めた。たびたび帝に封をした上表をして返答が得られず、怒って好き勝手に振舞うようになった。万暦三十四年(1606)、罪を問われ死罪を検討されているうちに卒去した。嫡孫の莱臣がまだ幼年であったため、庶兄のシン臣が仮に爵位を継いだ。シン臣に卒去すると、莱臣が継承すべきであったが、シン臣の子の孔昭が継いだ。崇禎帝の時代に、南京に出向して長江の提督となった。福王が立つと馬士英・阮大と協力し、後に航海に出て終わるところを知らず。



璟、字は仲璟、基の次子で、弱冠にして諸経に通じた。太祖は基のことを想い、毎年璟と章溢の子の允載、葉チンの子の永道、胡深の子の伯機を召して便殿で会見し、家族のようにうちとけて語り合った。洪武二十三年(1390)、璟は父の爵位を嗣ぐよう命じられた。璟は長兄の子のタイがいると言った。帝は大いに喜び、タイに爵位を嗣ぐよう命じ、璟は閤門使とした。そしてこう告げた。「宋の制度から考えるに、閤門使は儀礼を司るという。朕は汝が昼に夕に側近くいて、朕の命令を伝達するようにとこの官職に就けたのだ。礼儀を司るというだけではない。」帝が朝廷に臨席すると側近が現れ、百官の奏事に欠落があれば隨時それを正した。都御史の袁泰が車と牛の事について事実と異なることを報告した。帝はこれを許したが、袁泰は引き下がるときに感謝を述べることを忘れた。璟はこれを指摘して袁泰は罪に服した。帝はは璟にこう教えた。「およそあのような者がいたなら、すぐに面前でそれを指摘するように。朕がそれを罪に問わなくても、朝廷の綱紀を引き締めるには必要なことだ。」そして裁判官に同じ方式で獄中の未決囚を裁かせた。谷王が所領に赴くと、璟は左長史に抜擢された。



璟は英雄を論じ軍事を語ることを喜んだ。温州の賊の葉丁香が叛乱を起こしたとき、延安侯の唐勝宗が討伐したが、作戦は璟が決めた。賊を破って帰還すると、璟の才略は称賛され、帝は「まことに璟は伯温の子である。」と言って喜んだ。かつて永楽帝と囲碁をしたとき、永楽帝は「卿よ、少しは譲ってくれないか?」と言った。璟はいずまいを正して「譲るべきところは譲り、譲るべきでないところは決して譲りません。」と言った。永楽帝は黙り込んでしまった。靖難の変が起こると、璟は谷王に従って都に帰り、十六の策を献じたが用いられなかった。李景隆の軍事の参謀を命じられ、李景隆が敗れると、璟は夜に盧溝河を渡った。氷が割れて馬が穴に落ち、雪の中三十里を進んだ。子の貊が大同から救援に駆けつけ、良郷で出会って共に帰った。建文帝に『聞見録』を進上したが、顧みられず、ついに郷里に帰った。永楽帝が即位すると、璟は召されたが、病と称して行かなかった。結局は京に上ったが、なおも永楽帝を殿下と呼び、その上「殿下は百世の後まで、『簒』の一字から逃げることはできないでしょう。」と言った。投獄されて自ら首を吊って死んだ。法官が家族も連座させるとの命令を望んだが、永楽帝は基の業績を持って連座させなかった。宣徳二年(1427)、貊に刑部照磨を授けた。

同じく「簒」と言っても、「殿下」と言うのと「燕賊」って言うのではまるっきり怒り方が違うんですね。


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ナントカ堂 2014/09/19 01:29

明代の名門(2)

常遇春本人については良く知られているのでその子孫について『明史』巻百二十五の「常遇春伝」から



常遇春には二子がいた。茂、昇である。



茂は遇春の功により、鄭国公に封ぜられ、食禄は二千石、世券(訳注:子孫の処罰の減免などの特権を保証する鉄券)を与えられた。茂は驕慢にして幼稚で武芸を習わなかった。洪武二十年(1387)、大将軍の馮勝が金山へ納哈出討伐に向かうのに従った。馮勝は茂の妻の父であった。茂は馮勝との約束を守らないことが多く、馮勝はしばしばこれを叱責していた。茂はこれに対して傲慢な態度で応じたので、馮勝はますます怒ったが、まだ何も処分を行わなかった。このとき納哈出が降伏を申し出て、右副将軍の藍玉の陣に来た。酒宴となり、納哈出は藍玉と互いの姿が見えないところに来ると、酒を地面に注いで、配下の方を向いて怨み言を述べた。茂はちょうどその場にいた。部下の趙指揮が蒙古語を理解でき、密かに茂に「納哈出は逃げ出そうとしています。」と告げた。茂は不意を突くため、納哈出の前に進み出て殴った。納哈出は大いに驚き、起き上がって馬に乗ろうとした。茂は剣を抜いて納哈出の臂を斬りつけて負傷させた。納哈出の麾下の兵はこのことを聞いて、驚いてばらばらになって逃げ去った。馮勝は怒りのあまり、茂の罪を誇張して、茂が軍律に反した行動をしたため叛乱が起こりそうだと報告した。このため茂はついに檻に入れられて都に送られた。茂もまた馮勝が数々の軍律違反を行ったことを述べたので、帝は馮勝の総指揮官の印を取り上げ、茂は龍州に留め置いた。二十四年(1391)に卒去した。これ以前のこと、龍州土官の趙貼堅が死に、従子の趙宗寿が地位を継ごうとしていた。趙貼堅の妻の黄が自分の娘を愛し、茂に与えて側室として、勝手に龍州の政治を行っていた。茂が死ぬと、黄は趙宗寿と州土官の印を争って、互いに相手の罪を訴えた。また茂が実は死んでおらず、趙宗寿はそのことを知っているとの流言がなされた。帝は怒り、茂には自ら謝罪するよう責め、楊文・韓観に龍州へ討伐に向かうよう命じた。果たして茂がすでに死んでいることが分かり、趙宗寿もまた降伏を申し出たので、出兵を取りやめた。



茂には子が無く、弟の昇を改めて開国公に封じた。昇はしばしば地方の軍に出向し、太子太保を加えられた。昇の死去は『実録』に記載が無く、その他の書に記されるところによれば、建文の末(1402)、昇は魏国公の輝祖と浦子口で奮戦し、永楽の初め(1403)に死んだという。あるいは昇は洪武年間に、藍玉の一党として三山で兵を集めたとの訴えがあり誅殺されたともいう。常氏は興宗の外戚で、建文帝の厚遇されて靖難の変に遭遇したため、事実が不明であり、その死にも異聞が伝わっている。昇の子の継祖は、永楽元年に雲南の臨安衛に遷された。このとき継祖は七歳になったばかりであった。継祖の子が寧で、寧の子が複である。弘治五年(1492)にこのような詔が下された。「太廟に配祀された諸功臣のうち、王を追贈された者は、みな皇祖が天下を平定するにあたり大功があった。しかるにその子孫のうちある者はわずかな禄も与えられずに落ちぶれている。朕はこれを忍びがた。担当官庁はその嫡系の子孫を探し出して、検討して何らかの官職を授け、先祖の祭祀を行わせるようにせよ。」そこで復は雲南から召されて、南京錦衣衛世指揮使を授けられた。嘉靖十一年(1532)、四王の子孫に位を継がせることとなり、複の孫の玄振を懐遠侯に封じた。そこから曾孫の延齢まで伝わり、延齢は行いが賢明で有名であった。崇禎十六年(1643)、全楚が賊の手に落ちた。延齢は都の兵を率いて九江に赴き現地の者と協同して守ることを願い出た。さらに延齢は、江都に常家沙という名の地があり、そこには始祖を同じくする一族の男が数千人いるので、その者たちを忠義で鼓舞して、訓練して親兵とすることを願い出た。帝はこれを喜んだが結局は実行されなかった。南都の功臣の子孫たちは多くが身勝手な行動をしていたが、ただ延齢だけは自分の職務を全うして称賛された。国が亡ぶと、自身は農夫となり、仕官せずに蕭然として老い亡くなった。



まあ、ここまでなら功臣の子孫としては普通な感じなのですが、常氏の子孫として興味深い人物に傍系の常朗がいます。

常朗は常遇春の九代目の子孫で遼陽の地に移り住み少しずつ勢力を広げました。
この遼陽を含む一帯に清朝が勃興するとその支配下に入り、長年この地になじんでいたがために、漢人ではなく満洲人扱いされ満洲正白旗に編入され、本家が明朝の遺臣として野に下るのとは対照的に、新王朝の支配者層の一員となりました。


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ナントカ堂 2014/09/18 23:55

明代の名門(1)

『明史』巻百二十五の「徐達伝」に



洪武の諸功臣、ただ徐達の子孫だけに二系統の公がいて、両京に分かれて住む。魏国公の子孫は賢者が多かったが、定国公は代々の皇帝より常に倍の恩寵を受けていた。嘉靖年間に詔により、爵位を継がせるべき家系を整理した際、定国には見るべき功がないという者があったが、結局は爵位を取り上げられることは無かった。



とあります。wikiには徐達と徐輝祖の伝が既にあるので、「徐達伝」よりそれに続く部分を訳してみましょう。

(徐達の)子は四人。輝祖、添福、膺緒、増寿である。長女は文皇帝の后、その次は代王の妃、その次は安王の妃である。



輝祖、初名は允恭。身長は八尺五寸、才気があり、武勲のある家の出であったため左軍都督府の官職に就けられ、達が薨去すると爵位を嗣いだ。皇太孫の諱を避けて輝祖という名を賜った。たびたび陝西・北平・山東・河南に出向して軍務に就いた。元の将の阿魯帖木児は燕府に属していたが、謀叛の志があったため、捕らえて誅殺した。帰還して中軍都督府を統括した。建文の初めに太子太傅を加えられた。燕王の子の高煦は輝祖の甥であった。燕王が挙兵すると、高煦は都に勾留されそうになり、輝祖の名馬を盗んで逃げた。輝祖は大いに驚き、人を遣わして追わせたが追いつけなかった。これが帝の耳に入り信頼されるようになった。しばらくして、山東への援軍の指揮を命じられ、斉眉山で燕の兵を破ったので、燕人は大いに懼れた。そこへ突如として詔が下って召還され、諸将の軍勢は孤立し、相次いで敗北した。燕兵が長江を渡ってもなお、輝祖は兵を率いて力戦した。永楽帝が都に入ると、輝祖は一人、父の祠を守って出迎えなかった。ここにおいて輝祖の罪についての調査書が作成されたが、その調査書には、徐達が建国の功績があり賜った鉄券に死罪を免除するとの文言があると記されていた。永楽帝は激怒して、爵位を剥奪し自宅に幽閉した。輝祖は永楽五年(1407)に卒去した。万暦年間に建文の忠臣が記録され、南都の廟に祀られることになると、輝祖はその筆頭となった。後に太師を追贈され、諡は忠貞とされた。
輝祖が死んだ翌月、永楽帝は群臣にこのような詔を下した。「輝祖は斉泰や黄子澄などの輩と共謀して社稷を危うくした。朕は中山王の大功あることを思い、曲げてこれを赦すこととする。いま輝祖は死んだが、中山王の跡を絶やしてはならぬ。」そこで輝祖の長子の欽に爵位を嗣がせた。九年(1411)、欽と成国公の勇、定国公の景昌、永康侯の忠らはともに横暴な言葉を言ったと官に弾劾された。帝は勇らを諭し、欽には学問を学ばせた。十九年(1421)朝廷に参内すると、突然辞任して帰った。帝は怒り、罷免して庶民の地位に落とした。洪熙帝が即位するとまた元の爵位に戻され、子の顕宗・承宗に伝えられた。承宗は天順の初め(1457)に、南京の守備を任され、併せて中軍府を統括した。公平にして清廉でよく兵士に気を配っていたため、賢明な人物として名声があった。卒去して子のフ(人偏に甫)が嗣いだ。フ、字は公輔、慎重な性格で、容姿も挙措も優れていた。このころ南京の守備は体制が最も充実していた時期で、懐柔伯の施鑑がフと共同で守備していたが、施鑑がフの上の地位にいた。フはこれを不服として朝廷に言上したので、詔により爵位をもって序列を決めることとし、これを法で定めた。弘治十二年(1499)、給事中の胡易と御史の胡献が災異をもって諌言し投獄された。フは上表して両名を救った。正徳年間(1506~1521)、上書して帝が狩りをして遊んでいることを諌めたが、その文言は切実で実直なものであった。かつて無錫の民と田の所有で争いとなり、劉瑾に賄賂を贈ったので、当時の人にこれをそしられた。フは爵位を嗣いでから五十二年にして卒去し、太傅を追贈され、荘靖と諡された。孫の鵬挙が爵位を嗣いだが、妾を寵愛して勝手に夫人に封じて、その妾との間の子を嫡子に立てようとしたため、禄を取り上げられた。爵位は子の邦瑞、孫の維志、曾孫の弘基に伝えられた。承宗より弘基に至るまで六代、みな南京を守備して、軍を指揮し南京の行政を行った。弘基は累進して太傅を加えられ、卒去して、荘武と諡され、子の文爵が爵位を嗣いだ。明が亡んで、爵位を取り上げられた。
増寿は父の引き立てにより仕官して左都督になった。建文帝が燕王の謀叛を疑ったとき、増寿にそのことを尋ねた。増寿はひれ伏してこう言った。「燕王は先帝の兄弟であり、その富と地位はすでに極まっております。どうして謀叛など起こしましょうか。」燕の軍が挙兵すると、増寿は都の実情を何度も燕に報せた。帝はこれに気づいたがまだ詰問しなかった。燕軍が長江を渡るに至って、帝は増寿を召しだして詰問した。増寿は何も答えず、帝は宮殿内で自ら剣を手にして増寿を斬った。燕王は宮殿に入ると、その遺体を撫でて声を上げて泣いた。燕王が即位すると、増寿は武陽侯に追封され、諡を忠愍とした。続いて定国公に進封され、禄は二千五百石とした。子の景昌が嗣いだが、驕慢でたびたび弾劾され、永楽帝はしきりに景昌を諭した。永楽帝が崩御すると、景昌は自宅で喪に服し葬儀に出なかったため、冠と官服を取り上げられ禄を停止されたが、まもなく元通りとされた。三代爵位を嗣いで玄孫の光祚の代になり、軍府の長官を歴任して太師を加えられ、爵位を嗣いでから四十五年に卒去し、栄僖と諡された。位は子から孫の文璧まで伝わり、文璧は万暦年間(1573~1620)に後軍府を統括した。文璧は小心にして帝に対して親のように謹み畏まった。しばしば帝に代わって郊天の儀式を執り行い、太師を加えられた。しばしば上書して、跡継ぎの決定、礦税の停止、囚人の恩赦を願い出た。爵位を嗣いで三十五年に卒去し、康恵と諡された。文璧より爵位を伝えて曾孫の允禎の代になり、崇禎の末(1644)に流賊に殺された。



長男の家系が功臣の筆頭として南京の留守居役兼軍のトップ、四男の家系がより親しまれて皇帝の膝元にいて軍の高官を歴任。
皇族を抜かせば徐達の子孫が明代随一の名門といえるでしょう。


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