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2014年 09月の記事 (13)

ナントカ堂 2014/09/21 01:24

明代の名門(8)

靖難の変の功臣については『壬午功臣爵賞録』に恩賞を受けた人物が列挙されているのですが・・・、これって筆頭が李景隆になってるんですよ(笑)建文帝のもとで兵部尚書やってた茹常とかも懐柔するために恩賞を与えたので入っていて、ちょっとどうなのかなこれは。

それはさておき、ここで靖難の変の功臣で後世まで爵位を伝えた家を見てみましょう。

『明史』巻百四十五から、靖難の功第二の朱能の家系を、朱能自身はwikiに記されているので子の朱勇の代から訳します。

子の勇が嗣いだ。元勲の子として特に目をかけられて、都督府の統括や南京の留守を歴任し、永楽二十二年(1424)に北征に従軍した。宣徳帝が即位すると、朱高煦の乱を鎮め、兀良哈討伐に従った。張輔が兵権を解かれると、詔により勇がこれに代わった。勇は南北の諸衛は軍事・辺境防衛・輸送が錯綜して処理しきれないので、南軍は輸送、北軍は辺境防衛に専念することを願い出た。さらに「都の軍は遠方で守備につくことが多く、十分に役目が果たせないので、精兵十万を選んで増員していただきたい。」と言い、さらに公・侯・伯・都督の子弟を教練することを願い出て、全て聞き入れられた。正統九年(1444)、喜峰口を出て、朶顔の諸部を討ち、富峪川に着いたところで帰還した。その先に進まなかったことを兵部尚書の徐晞に弾劾されたが、詔により不問とされ、続いて論功により、太保を加えられた。
勇は顔が赤くひげは巻き毛で、容貌魁偉であった。勇気と知略に足らないところがあり、士大夫を敬い礼遇していた。十四年(1449)帝に随行して土木に行き、戦鷂児嶺で敵を迎え撃ったが、自身が伏兵にかかって死んだため、麾下の兵五万騎が全て壊滅した。于謙らが勇の罪を遡って論議し封を取り上げた。景泰元年(1450)、勇の子の儀が葬祭を行うことを願い出たが、帝は、勇が大将として軍を壊滅させ、このため国は辱められ、先帝は敵の手に落ちたことをもって許可しなかった。その後、爵位継承を願い出ると、礼部尚書の胡エンがこれを後押しし、皇太子が立てられたことによる恩典として嗣ぐことを許され、毎年の禄は千石に減らされた。天順の初め(1457)、勇は平陰王に追封され、武愍と諡された。儀とその子の輔はともに南京の守備となった。
さらに三代伝わって希忠となった。希忠は嘉靖帝が承天に行幸するのに付き従い、行在所の左府の政務を司った。衛輝に着いたとき、夜中に行宮で火事になり、希忠は都督の陸炳とともに帝の左右に付き従って建物から出た。これより帝の寵遇を被り、直接西苑に出入りするようになった。後府・右府を統括し、神機営を従え、十二団営及び五軍営の提督となり、累進して太師を加えられ、毎年の禄を七百石増やされた。帝に代わって郊天の儀を行うこと三十九回、数え切れないほどの褒美を賜った。卒去して定襄王に追封され、恭靖と諡された。万暦十一年(1583)、給事中の余懋学の提言により、さかのぼって王爵を剥奪された。弟の希孝もまた都督となり太保を加えられ、卒去して太傅を追贈され、忠僖と諡された。
希忠の跡は五代伝わって曾孫の純臣の代となった。純臣は崇禎帝の時代に信任され、李自成が都まで迫ると、帝は純臣を内外の諸軍の総大将と太子の補佐役に任命したが、その敕が純臣に渡されないうちに、城が陥落して、純臣は賊に殺された。

この他に靖難の功臣で爵位を賜り、世襲の爵位とは別に明末まで代々将軍や総督などの上級の武官を歴任した者は陳珪・鄭亨・徐忠・張信・郭亮・徐祥・李濬・張玉・譚淵・孫巖・趙彝・李彬・張興・陳志などの一族です。
このうち趙彝の一族が記述が手短で面白いので挙げます。

『明史』巻百二十六三十四「趙彝伝」

趙彝は虹の人である。洪武帝の時に燕山右衛百戸となり、傅友徳の北征に従って、宣府・万全・懐来を守備し、永平衛指揮僉事に抜擢された。靖難の変で燕軍に降ると、各地で戦ってみな功があり、累進して都指揮使となった。永楽帝が帝となると、忻城伯に封ぜられ、禄を千石とされた。永楽八年(1410)、宣府を鎮守した。北征に従軍し。兵糧を盗んだとして投獄されたが、のちに釈放された。まもなく呂梁洪の流れが急となって通れなくなったので、彝に徐州を鎮守させて処理を行わせた。彝は再び勝手に運搬夫を殺して官の食糧を盗んだので、都御史の李慶に弾劾された。帝は法務官に命じて審理させたが、まもなく釈放された。洪熙帝が即位すると都に呼び戻され、宣徳の初め(1426)に卒去した。子の栄が嗣ぎ、数代伝えて之龍の代になった。崇禎の末(1644)、共同して南京を守備し、大清の兵が江南まで下ると、之龍は出迎えて降伏した。

これだけだと面白くはないのですが、この最後の趙之龍が『清史稿』巻二百四十八に伝が立てられているのです。

趙之龍は江南の虹県の人である。崇禎帝の時代に忻城伯として南京を鎮守した。福王が立つと皆で推戴して、政治に関与した。予親王の軍が南京に着くと、魏国公の徐允爵、保国公の張国弼、隆平侯の張拱日、臨淮侯の李祖述、懐寧侯の孫維城、霊壁侯の湯国祚、安遠侯の柳祚昌、永昌侯の徐宏爵、定遠侯の鄧文囿、項城伯の常応俊、大興伯の鄒存義、寧晋伯の劉允極、南和伯の方一元、東寧伯の焦夢熊、安城伯の張国才、洛中伯の黄九鼎、成安伯の郭祚永、フ馬の斉賛元、大学士の王鐸、尚書の銭謙益、侍郎の朱之臣・梁雲構・李綽らとともに出迎えて降った。趙之龍に世職の三等阿思哈尼哈番を授け、徐允爵らは全員そのまま放置し登用しなかった。

おそらくは居並ぶ名門のお歴々は地位を保証してもらえると思ったのでしょうが、命も財産も取られなかっただけましなのではないでしょうか。一応は三等の阿思哈尼哈番=男爵という貴族の端くれとなった趙之龍も複雑な心境だったと思います。

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ナントカ堂 2014/09/20 19:09

明代の名門(7)

太祖には二人の甥がいました。姉の子の李文忠と兄の子の朱文正です。
太祖は早くに一家離散を経験し家族愛に飢えていたので、旗揚げしてこの二人の甥が駆けつけたことをうれしく思ったことでしょう。
またこの二人もその期待に十分こたえるほどの才能の持ち主でした。

李文忠についてはwikiにもあり良く知られているので省きますが、その子の李景隆については微妙に違っているので、『明史』巻百二十六から、李景隆以降を訳してみます。

文忠には三子がいた。長子は景隆、次子は増枝、第三子は芳英といい、みな帝から名を賜ったものである。増枝は初め父の功績により官職が与えられ、のちに前軍左都督に抜擢された。芳英は中都正留守となった。

景隆、小字は九江である。書を読んで典故に通じた。長身で眉目秀麗、眼光鋭く立派な体格であった。朝礼があるごとにその挙措は完璧で、太祖はしばしばこれに目をかけた。十九年(1386)に爵位を継ぎ、しばしば湖広・陝西・河南に出向して訓練し、西番から馬を購入した。昇進して左軍都督府の政務を掌り、太子太傅を加えられた。
建文帝が即位すると、景隆は腹心として親任され、命じられて周王を捕らえた。燕の兵が挙兵し、長興侯の耿炳文が燕討伐に失敗すると、斉泰・黄子澄らは共に景隆を推薦した。そこで景隆が耿炳文に代わって大将軍となり、将兵五十万を率いてすることとなった。景隆は通天犀帯を賜り、帝自らが推輪(訳注:臣下に対する最高の礼として車を押すこと)して、長江のほとりまで見送り、出陣先での一切の権限を委ねられた。景隆は貴公子で兵の用い方を知らず、ただ自らを尊大に振舞って、宿将は意見を聞き入れられないことが多く不快に思った。景隆は徳州まで急行すると、兵を合流させ、そこから進んで河間に陣を張った。燕王はこれを聞いて喜び諸将に「李九江はただの着飾った少年だ。組しやすい。」と語った。そして世子に命じて北平を守備させ、城を出て攻撃することの無いよう戒めてから、自らは兵を率いて永平を助け、大寧に急行した。景隆はこれを聞くと、進軍して北平を包囲した。都督の瞿能が張掖門を攻め、突破できそうになったとき、景隆は瞿能が軍功を立てることを嫌って攻撃を止めさせた。燕軍は大寧を攻め落とすと、引き返して景隆を攻撃した。景隆は何度も大敗して徳州に逃亡し、諸軍はみな壊滅した。翌年正月、燕王が大同を攻めると、景隆は軍を率いて紫荊関を出て救援に向かったが、成果が無いまま帰還した。帝は景隆の権威がまだ軽いために諸将を纏めきれないものと思い、宦官を遣わして璽書をもたらし皇帝の象徴の黄色の鉞・弓・矢を賜り、討伐に励ませた。この使者が長江を渡ったときちょうど風雨があって船が壊れ、賜り物が全て失われたので、帝は改めてこれらを賜った。四月、景隆は徳州で兵を集めて必勝を誓い、真定で武定侯の郭英、安陸侯の呉傑らと合流して、合計六十万の軍で進軍して白溝河に陣取った。そして燕軍と連戦して、再び大敗し、璽書や斧鉞をことごとく放り出して、徳州に逃げ、さらに済南に逃げた。この戦いで官軍は死者数十万人を出し、南軍はついに燕軍を支えきれなくなった。ここでようやく帝は詔を出して景隆を召還した。黄子澄は景隆を推薦したことを後悔し憤り、景隆が朝廷に列席したところを捕らえると、景隆を誅殺し天下に謝ることを願い出た。燕軍が長江を渡ると、帝はどうしてよいかわからなくなった。このとき方孝孺は再び景隆を誅殺することを願い出た。帝はどちらのときも景隆を不問とした。そして帝は景隆と尚書の茹ジョウ・都督の王佐を燕軍の元に行かせて土地を割譲して講和することを求めた。燕軍が金川門に陣を張ると、景隆は谷王とともに開門して出迎え降伏した。
燕王が皇帝に即位すると、景隆に奉天輔運推誠宣力武臣・特進・光禄大夫・左柱国を授け、毎年の禄を千石増やした。朝廷に大事があると、景隆はなおも首班として朝議を仕切ったので、諸功臣はみな不平に思った。永楽二年(1404)、周王が、建文帝の時代に景隆が自宅で賄賂を受け取ったことを告発し、刑部尚書の鄭賜らもまた景隆がふたごころを抱いて、建文帝の旧臣を迎えて養い、謀叛をたくらんでいると弾劾した。このときはそれを追求しないようにとの詔が出された。この件が収まってから、成国公の朱能、吏部尚書の蹇義と文武の群臣が、景隆とのその弟の増枝が謀叛を企んでいると弾劾した。六科給事中の張信らもまた同様の弾劾を行った。そこで詔により勲号を取り上げ、朝廷への出仕を差し止め、曹国公の身分で自宅に謹慎させて、長公主の祭祀を奉じさせた。亡くなってから、礼部尚書の李至剛らが再びこう進言した。「景隆は家にいる間、自らは座ったまま朝廷よりの監視人からひれ伏して謁見する礼を受けており、それは君臣の礼のごときもので大いに道に外れた行いです。増枝は多くの荘園を設立して、従僕を雇いその数はおよそ千百人ほどで、何を考えているのか分かりません。」ここにおいて景隆の爵位を剥奪して、増枝と妻子数十人を自宅に幽閉し、その財産を没収した。景隆はかつて十日間絶食したが死なず、永楽末(1424)に卒去した。
正統十三年(1448)に詔が下り、ここにようやく増枝らは自宅の門を開いて自由に出入りできるようになった。弘治の初め(1488)、文忠の子孫を調べ、景隆の曾孫のセンを南京錦衣衛世指揮使とした。センが卒去して子の濂が嗣ぎ、濂が卒去して子の性が嗣いだ。嘉靖十一年(1532)詔により性を臨淮侯に封じ、禄を千石とした。翌年に卒去し、子が無かったので、濂の弟の沂に封を嗣がせた。沂が卒去すると子の庭竹が嗣いだ。たびたび軍府の長官となり、長江の提督となって、平蛮将軍の印を帯びて、湖広に鎮した。庭竹が卒去すると子の言恭が嗣いで、南京の守備となった。指揮官として都の営所に入り、累進して少保を加えられた。言恭、字は惟寅。学問を好み詩を得意とし、その作風は簡素であった。子の宗城は若い頃から文才によりを名が知られていた。万暦年間に倭が朝鮮を攻めたとき、兵部尚書の石星は朝貢国について取り仕切っていたが、才により宗城を推薦した。宗城は都督僉事を授けられ、正使に任命され、決定権を委ねられて日本に向かった。指揮の楊方亨が副使となった。宗城は朝鮮の釜山まで来ると、倭の兵がどんどん増えて行き、道路も混乱状態で、その上、使者の両名に危害を加えるとの話しも聞かれた。宗城はこれを恐れて、服を変えて逃げ帰った。楊方亨は海を渡って倭に辱められた。宗城は投獄され辺境に兵として送られそうになったが、その子の邦鎮が侯を嗣ぐことになった。明が亡んで爵位断絶となった。

次は『明史』巻百十八から朱文正を

靖江王の守謙は太祖の従孫であり、父の文正は南昌王の子である。太祖が旗揚げしたとき、南昌王は既に死んでおり、妻の王氏が文正を連れて太祖を頼ってきた。太祖と高后はわが子のようにかわいがった。成長すると伝や記を渉猟し、勇気と知略に溢れ、長江を渡って集慶路を取った。軍功を挙げると枢密院同僉を授けられた。落ち着いたときに太祖が「どれか欲しい官職はあるか?」と尋ねた。文正が答えた。「叔父上が大業を成し遂げられたなら、どうして富貴など気にいたしましょう。爵や賞を先に身内に与えてしまえば、どうやって人々を心服させられますか?」太祖はその言葉を喜び、ますます文正を愛した。
太祖が呉王となると、文正は大都督に任命され、内外の諸軍事を任された。江西が再び鎮定されると、洪都は重要拠点で西南の守りでもあり、肉親で重臣でなければ守備できないと考え、文正に趙得勝らを統率させこの地を鎮守させ、儒士の郭之章と劉仲服を参謀とした。文正は城を増築し池を浚い、山寨に籠もっていまだ帰順しない者を招諭した。命令は明確で厳粛であったので、遠近となく震え畏れた。まもなく陳友諒の水軍六十万が洪都を包囲した。文正はしばしばその鋭鋒を退け、堅守すること八十五日、破壊されて復旧した城壁が数十丈にも及んだ。陳友諒は近隣の吉安と臨江を攻めて、その守将を捕らえて城壁の下まで連れてきたが、城内は動揺しなかった。太祖が自ら兵を率いて来援したので、陳友諒は囲みを解いて退き、彭蠡で太祖と互いの進路を妨害して戦った。陳友諒は略奪した兵糧を都昌に置いていたが、文正は方亮を遣わして陳友諒の舟を焼いた。糧道が断たれたので陳友諒はついに敗退した。文正はまた何文輝らを遣わし、まだ降っていない州県を討ち平らげた。江西が平定されたのは文正の功に拠るところが大きかった。
太祖は都に戻り、廟に報告してから酒を飲んで、常遇春や廖永忠、諸将士に多大な金帛を賜った。そして文正が前に言ったことの意を汲んで、今後、功を立ててから恩賞を与えようと考えた。しかし文正は恩賞への不満に耐え切れず、もともと気の短い性格であったので、ここに至り不満を爆発させ、ついには節度を失い、小役人の衛可達に命じて部下の子女を奪わせた。按察使の李飲冰が、文正が驕慢にして太祖を怨んでいることを奏上したので、太祖は使者を遣わして譴責した。文正がこれを懼れたので、李飲冰はますます勢いづいて、文正が謀叛の志を持っていると言った。太祖はその日のうちに舟に乗って洪都城の前まで来て、人を遣わし文正を呼んだ。文正が突然のことにあわてふためき城を出て迎えると、太祖は何度も「汝は何をしようとしているのか?」と言った、そして文正を舟に乗せて連れ帰り、文正が悪事をやめることを望んだ。高后が「この子は性格が剛胆なだけで他意はありません。」と必死にとりなした。そこで免官して桐城に流した。文正はまもなく卒去した。李飲冰は他の事件で誅された。
文正が流されたとき、守謙はわずか四歳であった。太祖はこの子の頭を撫でてこう言った。「子よ、恐れることはない。汝の父に必要以上に厳しくしたため、私には憂いだけが残った。私は汝の父のことで汝を斥けるようなことは決してしない。」そして宮中で育てた。守謙は幼名を鉄柱といい、呉元年(1367)に諸子に名を付けたことを廟に報告した際、イ(火偏に韋)と名を改めた。洪武三年(1370)、名を守謙に改め、靖江王に封じた。禄は郡王と同じとし、官属は親王の半分として、老儒の趙クンを長史に任命して傅役とした。成長すると藩王として封地の桂林に赴かせた。桂林は元の順帝が即位前に住んでいた所であり、ここを改めて王宮とし、感謝の上表文を送った。太祖が守謙の家臣にこのような書状を送った。「従孫は幼くして西南の遠方を鎮守する。これを善導せよ。」守謙はこの書状のことを知り、かえって小人とつきあうようにした。このため地元のエツ人の間に怨嗟の声が広がった。都の呼び出されてこれを改めるよう諭されたが、守謙はこれを怨む詩を作った。太祖は怒り、廃して庶人とした。鳳陽に居ること七年、再び爵位を戻され、雲南に赴き鎮守した。このとき守謙の妃の弟である徐溥を同行させ、書状を賜り戒めたが、その書状は極めて真摯なものであった。守謙の横暴さは以前のままで、都に呼び出されて、また鳳陽に住まわされた。そこでさらに牧の馬を強奪したので、都で禁錮された。洪武二十五年(1387)卒去。子の賛儀は幼かったので世子とした。

洪武三十年(1397)春、賛儀は晋・燕・周・楚・斉・蜀・湘・代・粛・遼・慶・谷・秦の十三王のもとにあいさつ回りに遣わされ、湘・楚から蜀に入り、陜西を経て、河南・山西・北平を巡り、東は大寧・遼陽まで行き、山東より帰った。親類との繋がりを感じ、山川の険阻なのを知って、苦労を体験するようにとの太祖の考えによるものである。こうして賛儀は慎み深く学問を好むようになった。永楽元年(1403)再び藩王として桂林に赴き、蕭用道を長史とした。蕭用道は賛儀をよく輔導し、賛儀もまた蕭用道に対し礼をもって敬った。六年(1408)に薨去し、諡を悼僖とした。

賛儀の子で荘簡王の佐敬が跡を嗣いだ。初め銀印を賜っていたが、宣徳年間に金塗りに改められた。正統の初め(1436)、弟で奉国将軍の佐敏と互いに讒訴しあい、大学士の楊栄まで謗った。帝は怒り、両名の使者を追放した。成化五年(1469)に薨去した。子の相承が先に卒去していたので、孫で昭和王の規裕が嗣いだ。弘治二年(1489)に薨去し、子で端懿王の約麒が嗣いだ。約麒は孝行で慎み深いことで有名であった。正徳十一年(1516)に薨去し、子で安粛王の経扶が嗣いだ。経扶は学問を好み徳を修め、『敬義箴』を記した。嘉靖四年(1525)に薨去し、子で恭恵王の邦苧が嗣いだ。邦苧は巡按御史の徐南金と互いに讒訴しあったので、邦苧の俸禄を取り上げ、部下の将校を処罰した。隆慶六年(1572)に薨去し、子で康僖王の任昌が嗣いだ。万暦十年(1582)に薨去し、子で温裕王の履燾が嗣いだ。二十年(1532)に薨去して子が無く、従父で憲定王の任晟が嗣いだ。三十八年(1610)に薨去して、子で栄穆王の履コが嗣いだ。薨去して、子の亨嘉が嗣いだ。亨嘉は李自成が都を攻め落とすと、広西で自ら監国を称し、巡撫の瞿式耜に誅殺された。このとき唐王の聿鍵が福建にいて、誅殺したことが報告された。

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ナントカ堂 2014/09/20 13:01

明代の名門(6)

建国の功臣として爵位を与えられたうち、侯爵として明末まで続いたのは他に李文忠・トウ愈・湯和の家系です。李文忠は後述するとしてトウ愈と湯和のについて記します。



『明史』巻百二十六「トウ愈伝」より



長子の鎮が嗣いで申国公に改封された。征南副将軍として永新の龍泉山の賊を討伐した。賊が再び攻めたので砦から出撃して軍功を挙げた。その妻は李善長の外孫であった。李善長が罪に問われると奸党として誅殺された。弟の銘は錦衣衛指揮僉事となり、蛮を討伐して陣中で卒去した。銘には子の源がいて鎮の跡継ぎとなった。弘治年間(1488~1505)、源の孫の炳に南京錦衣衛世指揮使を授けた。嘉靖十一年(1532)、詔により炳の子の継坤を定遠侯に封じた。五代伝わって文明の代になり、崇禎の末(1644)に流賊の難に遭って死んだ。



『明史』巻百二十六「湯和伝」より



和には五子がいた。長子の鼎は前軍都督僉事となり、雲南遠征に従って、その途中で卒去した。末の子の醴は軍功を重ねて左軍都督同知になり、五開遠征中に陣中で卒去した。鼎の子が晟で、晟の子が文瑜であり、ともに早世して、爵位を嗣ぐことができなかった。正統帝の時代に、文瑜の子の傑が爵位を嗣ぐことを願い出たが、四十年以上経っても継げなかったのであきらめた。傑には子が無く、弟の倫の子である紹宗を跡継ぎとした。孝宗が功臣の子孫を記録したときに、紹宗に南京錦衣衛世指揮使を授けた。嘉靖十一年(1532)に霊璧侯に封ぜられ、食禄は千石となった。爵位は子孫に伝えられ、孫の世隆は隆慶年間(1567~1572)に協同して南京の守備となり、兼ねて後府を統括した。のちに漕運の提督となり、軍職を四十年以上歴任した功労により、太子太保を加えられ、さらに少保に進んだ。卒去して僖敏と諡され、子孫は爵位を伝えて、明が亡ぶと断絶した。



和の曾孫の胤勣は字を公讓といった。諸生となり、詩に巧みで己の才を誇りに感じていた。巡撫尚書の周忱が胤勣に布告を作らせると、その場で数万言ある文書を作ったので、周忱は胤勣を朝廷に推薦した。少保の于謙が招いて古今の武将の軍略と戦争について尋ねると、胤勣は打てば響くようにこれに答えた。累進して錦衣千戸を授けられた。中書舎人の趙栄とともに沙漠に行って正統帝を慰問した。脱脱不花が中華の朝廷について尋ねると、胤勣は威厳を持ってこれに応答し少しも屈するところが無かった。景泰年間(1450~1457)、尚書の胡エンに推薦されて、指揮僉事の職に就けられた。天順年間(1457~1464)、錦衣の密偵が胤勣の昔の行いを収集して帝に報告したため、平民の身分に落とされた。成化の初め(1465)、もとの官職に復帰。三年(1467)都指揮僉事の職に起用され、延綏東路参将となり、分担して孤山堡を守った。孤山は敵との前線にあり、胤勣は奏上して、城を築き兵糧を集め兵を増員して守備することを願った。返答が来ないうちに敵が大規模に進攻してきた。胤勣は病気であったが、病を押して馬に乗って戦い、城は落ちて戦死した。これが帝に報告されて、先例に則って国費で祭祀が行われた。



建国の功臣の家系が爵位保持者としてあまり残っていないのは、いうまでもなく胡藍の獄で処罰されたからであり、華中や陳鏞のようにすでに死亡していた父が関与していたということで爵位没収だけという者もかなりいました。



ここで参考までに『明史』巻百三十一の「金朝興」を取り上げます。



金朝興は巣の人である。淮西が乱れたので、人々と寄り集まって砦を築き自衛した。兪通海らがすでに太祖に帰順したので、朝興もまた麾下を引き連れて帰順した。長江を渡るときにこれに付き従い、遠征には全て参加して軍功を挙げた。常州を攻め落としたとき都先鋒となり、宜興を取り戻したとき、左翼副元帥となって、武昌を平定すると、龍驤衛指揮同知に昇進し、呉を平定すると、鎮武衛指揮使に改められ、大同で勝利すると、大同衛指揮使に改められた。東勝州を取って、元の平章の劉麟ら十八人を捕らえた。
洪武三年(1370)、論功により都督僉事兼秦王左相となった。まもなく都督府事の職を解かれ、秦王の傅役に専念することとなった。四年に大軍に従って蜀を討ち。七年に総大将として黒城を攻め、元の太尉の盧伯顔、平章の帖児不花と省や院の官僚二十五人を捕らえた。そして李文忠に従って東道の兵をそれぞれ分かれて指揮し、和林を攻め取った。このことは「李文忠伝」に詳しい。



朝興は勇敢で智略もあり、向かうところわずかな兵を持って勝利を得、大軍を指揮したことがなかったが、その功は諸将を上回っていた。十一年(1378)、沐英の西征に従軍し、納鄰の七つの拠点を手に入れた。翌年に論功があって宣徳侯に封ぜられ、禄は二千石で、世襲の指揮使となった。十五年(1382)、傅友徳の雲南遠征に従い、臨安に駐留して、元の右丞の兀卜台、元帥の完者都、土豪の楊政らがともに朝興に降伏した。朝興は自分の担当地域の民を慰撫したので兵も民もみな喜んだ。進軍して会川に到着したところで卒去した。沂国公に追封され、武毅と諡された。十七年、雲南平定の論功が行われ、改めて侯の世襲の証書を賜り、禄を五百石増やされた。
長子の鎮が封を嗣いだ。二十三年(1390)、朝興が胡惟庸の一党であったことがさかのぼって罪に問われ、鎮は平衛指揮使に降格された。鎮は遠征に従軍して軍功を挙げ、都指揮使に昇進し、その後、世襲の衛指揮使となった。嘉靖元年(1522)、雲南に傅友徳・梅思祖・金朝興の廟を立てるようにとの命があり、朝興の廟の額には「報功」と記された。



金鎮はもとの侯爵までは至りませんでしたが、世襲の衛指揮使(正三品)となり、金朝興も功臣として廟を建てられ、ある程度は復権できたようです。



また廖永忠の家系は洪武帝の粛清は免れましたが、孫の鏞は都督として建文帝の軍議に参加し、さらには弟の銘とともに、学問の師であった方孝孺の遺体を引き取って埋葬して、これを弾劾され、死罪は免れたものの、爵位没収の上、一族共に辺境の武官に左遷されて没落しました。


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ナントカ堂 2014/09/20 11:43

明代の名門(5)

郭英の名前が出てきたので、次は郭英の一族について、例により郭英は良く知られているのでその子孫を『明史』巻百三十から訳します。



(郭英の)子は十二人。鎮は永嘉公主を娶り、銘は遼府典宝となり、鏞は中軍右都督となった。娘は九人。次女は遼の郢王の妃となった。銘の子である孫娘は洪熙帝の貴妃となった。事情により銘の子のゲン(玉偏に玄)が侯を嗣いだ。宣徳年間(1426~1435)、ゲンは宗人府の官職に就けられた。ゲンは河間の民の田や小屋を奪い、さらに天津の屯田千畝を奪ったが、ゲンの家の使用人の罪としてゲンは許した。正統帝の治世の初め、永嘉公主は自分の子の珍が侯を嗣げるよう願い出た。珍は英の嫡孫であり、錦衣衛指揮僉事を授けられた。ゲンが卒去すると、子の聡が珍と跡目争いをした。このためついには両者とも継承停止となり、聡には珍と同じく錦衣衛指揮僉事を授けられた。天順元年(1457)、珍の子の昌は詔により温情をもって侯を嗣がせることとなったが、聡がこれを争ったので取りやめとなった。昌が卒去して、子の良が嗣ぐこととなったが、聡はまた、良は昌の子では無いと言ったので、侯を嗣ぐことは停止され、指揮僉事を授けられた。良は何度も侯を嗣ぐことを願い出たので投獄されたが、まもなく釈放されてもとの官に戻された。こうした中、郭氏の一族が揃って、英の子孫を一人選んで英の爵位を嗣がせるよう願い出た。廷臣はみな、本来は良が英の嫡孫であり、侯を嗣がせるべきだと言った。詔によりこれが許された。良は正徳の初め(1506)に卒去し、子の勛が嗣いだ。



勛は凶悪な人物で知略があり、書や史を渉猟した。正徳年間(1506~1521)、両広に駐屯し、のちに三千営を統括し、嘉靖帝の治世の初めに団営を統括した。大礼の議が起こり、勛は帝の意思を察知して張ソウに賛同した。このため嘉靖帝は勛を大いに寵遇した。勛は寵遇をよいことに好き勝手に振舞った。大学士の楊一清はこれを憎み、勛が賄賂を求めたことが発覚したのを機に、営における職務を辞めさせ、太保兼太子太傅の官位を剥奪した。楊一清が罷免されると、勛は五軍営を統括し、四郊の祭壇造営の監督となった。翌年、団営を統括し、嘉靖十八年(1539)には領後府を兼ねた。嘉靖帝が天を祀るときに同行して、五代前の先祖の英が太祖の廟に配祀されることを願った。廷臣の意見は不可で、侍郎の唐胄がもっとも反対した。帝はそれらの意見を聞かず、結局、英の言うとおりに祀られることとなった。その翌年、嘉靖帝の父が尊属として太廟に祀られると、勛は翊国公に昇進し、太師を加えられた。
これ以前のこと、妖人の李福達が自ら薬物を調合して金銀を作れると言っていた。勛は李福達と親しく付き合っていた。李福達が罪に問われると、勛は厳しく取り調べることを主張した。このとき廷臣の多くが罪に問われた。この一件が片付いてから、勛はまた方士の段朝用を進めた。段朝用が言うには、自身が変化させて作った金銀を飲食の器にすれば不死となるのも可能だという。帝はますます勛を忠義者と思った。給事中の戚賢が、勛が権力を乱用して利を漁り何事にも民を虐げていると弾劾した。李鳳来らもまた同様の意見を述べた。帝が担当官に命じて調査させたところ、勛は都に千区画以上の店を持っていた。副都御史の胡守中がさらに弾劾するには、勛は叔父の郭憲に東廠の裁判を行わせて、罪無き者をほしいままに虐げているという。帝はそれらの訴えを保留した。このころ帝は言官の意見を採用して、勛に敕を賜り、兵部尚書の王廷相、遂安伯の陳譓と共同で徴兵を行うよう命じた。敕が届いても勛は実行しなかった。言官は、勛が強圧的に派閥を作っていると弾劾した。勛は「どうしてまた敕を賜りご苦労をおかけすることなどできましょう。」と弁解した。その言葉に帝は「人臣の礼に大いに外れたものだ。」と激怒した。ここにおいて給事中の高時は勛が不正に利益を得ていた件を全て告発し、さらに張延齢と交際していることを述べた。帝はますます怒り、勛を錦衣衛の獄に入れた。二十年(1541)九月のことである。
まもなく帝から鎮撫司に量刑の下問があった。鎮撫司は、勛の罪は死罪に当たると奏上した。帝は法司に再検討させた。給事中の劉大直が再調査して勛が政事を乱した十二の罪を纏めて、同時に審理することを求めた。法司は全ての報告書の罪状を審理して、勛の罪は絞殺に当たるとした。帝がさらに詳しく審議させると、法司は勅命違反の罪として勛は斬罪、妻子と田と邸宅は没収とした。奏上があったが帝はそれを手元において命令を下さなかった。帝は勛に対して寛大な処置をしようとしており、それとなく示していたが、廷臣は勛を大変憎んでおり、わからないふりをしてさらに勛を極刑にしようとした。翌年、言官が審理し、特旨により高時を二階級降格として、廷臣に帝の意向を示したが、ついに廷臣からは勛を取り成そうという者が現れなかった。その冬、勛は獄中で死んだ。帝はこれを憐れみ、法司を責めて投獄した。刑部尚書の呉山の官職を剥奪し、侍郎都御史以下の位階を各々削った。そして勛に対しては誥券のみを取り上げて財産は没収しなかった。



明の建国以来、勲臣は政事に与らなかった。ただ勛のみは恩寵に拠り介入して、権力をほしいままにし、悪事をなして罪に陥った。勛が死んで数年、その子の守乾が侯を嗣ぎ、曾孫の培民まで伝えて、崇禎の末(1644)に賊に殺された。


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ナントカ堂 2014/09/20 11:34

明代の名門(4)

徐達の二家に次ぐ名門が沐英の沐氏です。
郭英の子孫で嘉靖帝に重用された郭勛が著した書に『三家世典』というものがあります。これは徐達・沐英・郭英の三家の子孫について記したものですが、実際には郭英の家はそれほどでもなく、この二家と並べて記すことで他とは隔絶した名門であると示そうとしものです。このように挙げられたことからも沐氏の地位の高さが窺えます。
『明史』巻百二十六より、沐英自身は良く知られているのでその子の代から記します。



(沐英の)子の春・晟・昂はみな雲南に鎮し、昕はフ馬都尉となって、永楽帝の娘の常寧公主を娶った。



春、字は景春、その武の資質は父の風格があった。十七歳で、英の西番遠征に従い、さらに雲南遠征、江西の賊の平定に従って、いずれも先頭に立った。軍功を重ねて後軍都督府僉事を授けられた。群臣は試用期間を設けようとしたが、帝は「この子はわが家族だ。試すようなことはするな。」と言って、実際の官職に就けられた。烈山の囚人の取調べを命じられ、さらに蔚州の謀叛人の一味の処罰を命じられて、各々数百人を釈放した。英が卒去すると爵位を嗣ぐよう命じられ、雲南に鎮した。洪武二十六年(1393)、維摩十一寨が乱を起こしたので、瞿能を遣わして討ち平らげた。翌年、越ケイ蛮を平定し、瀾滄衛を設置した。その冬、阿資がまた叛いたので何福と共に討った。このとき春はこう言った。「この賊が何年も誅殺を免れていたのは、各地の酋長が婚姻を結んでいたため、転々と匿われているからだ。今や全ての酋長を駆り出して従軍させているので、これらの者の心をつなぎとめ、多くの砦を造って人の出入りを統制すれば、必ずや阿資を捕らえることができるだろう。」そして越州に向かい、各道に分かれて阿資の城に迫った。そして精兵を道の左に伏せて、疲弊した兵で賊を誘い出し、散々に攻撃して大いに破った。阿資は山谷に逃れたが、春は密かに近隣の土官(朝廷から官職を授けられた在地領主)と結んで、阿資の所在を探った。そして砦を造ってその糧道を断った。このため賊は行き詰まった。こうしてから不意を突いて賊の巣窟を攻撃し、ついに阿資を捕らえ、その一党二百四十人とともに誅殺し、越州はついに平定された。広南の酋長の儂貞佑は味方する蛮族を糾合して官軍に抵抗したが、敗れて捕らえられ、斬られた捕虜は千人ほどであった。寧遠の酋長の刀拝爛は交阯を頼って朝命に従わなかったので、何福を遣わして討ち降伏させた。
三十年(1397)、麓川宣慰使の思倫発は配下の刀幹孟に追放されて逃げ込んできた。春は思倫発を連れてともに入朝し、帝から方略を授けられた。そして春を征虜前将軍とし、何福・徐凱を指揮官として討伐させた。先に思倫発に兵を付けて金歯に送り込んで、刀幹孟に出迎えに来るよう書状を送った。刀幹孟からの答えは無かった。そこで精鋭五千を選んで、何福と瞿能に指揮させて、高良公山を越え、そのまま南甸を攻撃させて賊を大いに破り、そこの酋長の刀名孟を斬った。そこから軍を引き返して景罕寨を攻撃した。賊は高所であることを恃みとして堅く守った。官軍は兵糧が尽きて、何福は急を報せた。春は五百騎を率いて救援に向かった。夜に怒江を渡り、夜明けには景罕寨に到着した。春は騎兵に走り回るよう命じ、巻き上がった塵は天を覆った。賊は大いに驚いて壊走し、春は勝ちに乗じてコウトウ寨を攻撃すると、こちらもまた壊滅した。前後で降伏した者は七万人いた。将士は皆殺しにしようとしたが、春は許さなかった。刀幹孟が降伏を願い出たが、帝はこれを許さず、春に命じてテン・黔・蜀の全て兵の兵で攻撃するよう命じた。まだ出陣しないうちに春は卒去した。享年三十六。恵襄と諡した。



春は陣中にあること七年、屯田制を大いに振興して、田三十万畝あまりを開墾した。鉄池河を開削し、宜良の水不足であった田数万畝を灌漑し、民で農業に復帰した者は五千戸以上に上った。このため祀が立てられて祀られた。子は無く、弟の晟が嗣いだ。



晟、字は景茂。若い頃から重々しい性格で言葉少なくして笑い、本を読むことを喜んだ。太祖はこれを愛した。後軍左都督の官職を歴任し、建文元年(1399)侯を嗣いだ。このころ鎮守の任に就いた。すでに何福が刀幹孟を破り、思倫発は帰順していた。まもなく思倫発が死んで、諸蛮は各々の領地に割拠した。これを晟が討って平定し、その地を三府二州五長官司に分け、さらに怒江の西に屯衛千戸所を設置し兵を置いた。こうして麓川は平定された。これ以前、岷王が雲南に封ぜられたが、法を無視することが多く、建文帝の命により捕らえられた。永楽帝が即位すると、岷王は藩に戻されたが、ますます好き勝手に振る舞った。晟がこれを少し正したところ、岷王は怒って晟を讒言した。帝は王からの訴えにより詔を下して晟を訓戒し、岷王にも返書を送って、晟の父の功を称賛し、あまり厳しく監督しないよう伝えた。



永楽三年(1405)、八百大甸が辺境に攻め込み、他国の朝貢の使者を遮った。晟は車里・木邦と合流してこれを平定した。翌年、大挙して兵を出し交阯を討った。晟は征夷左副将軍を拝命し、大将軍の張輔とともに道を分かれて雲南から交阯に入った。そして蒙自から野蒲を通り木を切りながら道を作って、猛烈・ヒョウ華などの諸関隘を奪取した。夜中に船を担いでトウ水に出て、富良江を渡り、張輔の軍と合流して、共同して多邦城を攻め落とした。そして東西の二都を攻め、各地の拠点を滅ぼし、偽王の黎季リを捕らえた。そのときのことは「張輔伝」に記されている。論功により黔国公に封ぜられ、毎年の禄は三千石とされて世券を与えられた。
交阯の簡定が再び叛き、晟は征夷将軍の印を帯びて討伐を命じられた。生厥江で戦って連敗し、張輔とともに出陣して共同してこれを討ち、簡定を捕らえて都に送った。張輔は帰還し、晟は留まって陳季拡を捕らえることになったが、連戦しても降すことができなかった。張輔がまた出征して晟と合流し、占城まで追い詰めて陳季拡を捕らえた。兵を引き揚げ、晟もまた帝から恩賞を与えられた。十七年、富州蛮が叛いた。晟は兵を率いてこれに臨み、攻めずに人を遣わして説得し、ついにこれを降した。
洪熙帝が即位すると太傅を加えられ、征南将軍の印を鋳造して給された。沐氏が代々鎮守したのは、この印が与えられて常例となった。宣徳元年(1426)、交阯の黎利の勢いが盛んになった。晟に詔して安遠侯の柳升とともに討伐に向かわせた。柳升は敗死し、晟は退却した。群臣は相次いで晟を弾劾した。帝はその上奏文に封をして示した。正統三年(1438)、麓川の思任発が叛いた。晟は金歯に着くと、弟の昂、都督の方政の軍と合流した。方政が先鋒となり、長江に沿って賊の砦を攻略していった。大軍は逃げる賊を追って高黎共山の麓まで来て、再び破った。翌年また族の旧砦を攻め落とした。方政は伏兵により戦死し、官軍は連敗した。晟は兵を引き揚げ、後悔と恐れのうちに病を発し、楚雄まで来たところで卒去した。定遠王を追贈され、忠敬と諡された。
晟は父や兄の事業を継いだが、兵を用いるに長ずるところ無く、戦ってはたびたび不利となった。朝廷はその地が絶境であり、かつ代々の将であったので、しばらく様子を見ていた。テン人は晟父子の威信を恐れ、朝廷に仕えるように敬った。一枚の紙が下されるにも、土酋は威儀を正して館から出て迎え、手を洗ってから開き「これは令旨なり。」と言った。晟は長期間鎮守するうち、田園三百六十区画を設置し、その資産は満ち溢れていた。上手に朝廷の貴人に仕えて、滞りなく賄賂を贈ったので、内にも外にも名声を得た。晟には子がいて、斌、字は文輝と言った。幼くして公爵を嗣ぎ、都に住んで、昂が代わりに鎮守した。



昂、字は景高、初め府軍左衛指揮僉事となった。永楽帝が晟を将として南に遠征させたとき、昂を都指揮同知に起用して、雲南都司を統括させた。累進して右都督となった。正統四年(1439)将の印を帯びて麓川を討つこととなり、金歯まで来たが、賊の勢いを恐れてに攻撃を永い間先延ばしにしていた。参将の張栄が先駆けて芒部に行き敗れても、昂は救わずに引き返した。このため禄を二級削られた。思任発が攻め込むと、これを討って退け、さらに師宗で反乱を起こした者を斬った。六年、兵部尚書の王驥、定西伯の蒋貴が大軍を率いて思任発を討伐した。昂は物資輸送を担当した。賊を破ったので、昂を復職させて、兵を率いて思任発を捕らえるよう命じたが、捕らえられなかった。十年(1445)、昂は卒去した。贈定辺伯を追贈され、武襄と諡された。



斌が鎮所に着任したとき、緬甸が思任発を捕らえて都に送った。このため思任発の子の思機発が来襲し、斌がこれを撃退した。思機発はまた孟養に拠った。十三年(1448)再び大規模に兵を出し、王驥らに討伐させ、斌は後方で防衛し、兵糧が欠乏しないように指揮した。卒去して太傅を追贈され、栄康と諡された。



子の琮は幼く、景泰の初め(1450)、昂の孫のリン(玉偏に隣のつくり)を都督同知として代わりに鎮守させた。リン、字は廷章、もとから儒学を修めて優雅な文を作った。テン人はこれを組しやすいと思ったが、果たして命令は行き渡り、粛然として違反することはなかった。リンは天順の初め(1457)に卒去した。琮はまだ幼く、リンの弟で錦衣副千戸のサン(三国志の公孫サンと同じ字)を都督同知として代わりに行かせた。雲南にいること七年、霑禄の諸寨や土官で反抗する者を討ち平らげ、思卜発を降伏させ、諸蛮が侵略した土地を奪還するなど、多くの軍功を立てたが、収賄も多かった。
成化三年(1467)春、琮が鎮所に着任すると、は副総兵となって金歯に移鎮した。琮、字は廷芳、経義に通じ、文章を得意とした。琮は支配下の蛮族から貢物を送られても受け付けなかった。尋甸の酋長が兄の子を殺して、その地の長官となることを求めた。琮はこれを捕らえて誅殺した。広西の土官が悪政を行い領民が乱を起こした。琮が奏上して土官を廃止して中央から官僚が派遣されるようになったので民の生活は大いに良くなった。その後、馬龍・麗江・剣川・順寧・羅雄の反抗する蛮族を討ち平らげ、橋甸・南窩の反逆者を捕らえた。卒去して太師を追贈され、武僖と諡された。子は無く、リンの孫の崑が嗣いだ。



崑、字は元中、初めに錦衣指揮僉事を継いだ。琮がこれをかわいがって自分の子とした。朝議は昆が西平侯の子孫であるため侯爵を嗣ぐべきだとしたが、現地で守備する者はこれに意義を唱え、「テン人は黔国公(沐琮)を知っておりますが、西平侯(沐英)は知りません。侯爵では軽んじるかもしれません。」と言った。孝宗はもっともなことだと考え、昆に公爵を嗣がせ、元通りの印を持たせた。弘治十二年(1499)、亀山・竹セイの諸蛮を平らげ、さらに普安の賊も平定したので、再び禄を増やされた。正徳二年(1507)、師宗の民の阿本が乱を起こした。昆は都御史の呉文度とともに兵を率いて三道に分かれて進んだ。一軍は師宗から、一軍は羅雄から、一軍は彌勒から出た。別に一軍が盤江で伏兵となって、賊の巣窟を分断し、ついには大いに賊を破った。七年(1512)、安南長官司の那代が跡目争いをして、土官を殺した。崑は都御史の顧源とともにこれを討伐して捕らえた。崑はさらに太子太傅を加えられた。昆は以前は文学を好んで自らを厳しく律していたが、その後は権力者や帝の側近に賄賂を贈って、願い事を全て聞き入れられていたので、しだいに驕り高ぶり、布政使・按察使・都指揮使らをあなどって通用門から出入りさせた。各方面の官僚から弾劾されて、罪を問われて地位を去った。卒去して太師を追贈され、荘襄と諡した。



子の紹勛が嗣いだ。尋甸の土司に仕える安銓が叛いたので、都御史の傅習がこれを討ったが連敗した。武定の土司に仕える鳳朝文もまた叛き、安銓と共に雲南を攻めたので、雲南は大混乱になった。嘉靖帝は尚書の伍文定に大軍を指揮させて出征させた。伍文定が到着しないうちに、紹勛は麾下の兵を率いて先に進んだ。そして土官の子弟のうち跡継ぎの者に、先に冠と官服を与えて、賊を破った後に自分が朝廷の許可を取ると告げた。兵の多くが奮闘し、賊を大いに破った。鳳朝文が普渡河を渡って逃げるのを遮り、追撃して東川で斬った。安銓は尋甸に戻り、砦数十を作った。官軍がこれを破り、芒部で安銓を捕らえた。前後して賊の一党千人あまりを捕らえ、捕虜を数え切れないほど斬った。時に嘉靖七年(1528)のことである。帝に戦勝報告がなされて、太子太傅を加えられ、毎年の禄を増やされた。このときラオス・木邦・孟養・緬甸・孟密は互いに敵視して殺し合っており、師宗・納楼・思陀・八寨はみな乱れて長らく解消できないでいた。紹勛は使者に諸蛮の間を廻らせて、武定や尋甸で起こったことをほのめかしたのでみな恐れて服従し、侵略した土地の返還を申し出た。そして木邦と孟養は揃って貢物を持ってきて謝罪したので、南中はことごとく平定された。紹勛は武勇も知略もあり、いくさをすれば必ず勝った。卒去して太師を追贈され、敏靖と諡された。



子の朝輔が嗣いだ。都御史が劉渠が暗に賄賂を求めたので、朝輔は贈ってからこのような上奏をした。「臣の家は代々この地を守っております。今、高官がよく分からないように制度を変更して、要地を守備する臣の言うことはおよそ帝の耳に届かず、直接お会いしても先例通りになされないようです。臣は遠方にいて孤立しやすく、蛮族を押さえつけて支配しているわけでもないので、行動も制限されます。帝には全て先例通りとするように諸臣に命じられるようお願いいたします。」詔によりその通りにした。給事中の万虞愷が朝輔を弾劾し、あわせて劉渠と論争になった。詔により劉渠を罷免し、朝輔には以前の通りに統治するよう命じた。に卒去した、太保を追贈され、恭僖と諡された。



融・鞏の二子がいたがともに幼く、詔により、琮・リンの故事から、融に公を嗣がせて、禄を半分とし、朝輔の弟の朝弼に都督僉事を授け、印を帯びさせて代わりに鎮守させた。それから三年して融が卒去した。鞏が嗣ぐところであったが、朝弼は心中これを殺害しようと考えた。そこで朝弼の嫡母の李氏が鞏を都で保護してもらい、成長してから雲南に戻って鎮守させるよう願い出た。許可されたが、鞏は都に着かないうちに卒去した。こうして朝弼はついに公を嗣ぐこととなった。嘉靖三十年(1551)、元江の土司に仕える那鑑が叛いた。詔により朝弼と都御史の石簡がこれを討つこととなった。軍を五つに分けて賊の城に迫った。その城壁があまりに高く、風土病も発生したため軍を引き揚げた。詔により石簡は罷免されて、再び軍が派遣された。那鑑はこれを懼れて毒薬を飲んで死に、反乱は収束した。四十四年(1565)、朝弼は叛逆した蛮族の阿方・李向陽を討伐して捕らえた。隆慶の初め(1567)、武定で叛いた酋長の鳳継祖を平らげ、賊の巣窟三十箇所あまりを攻め落とした。朝弼はもとから驕慢で、母や兄嫁に仕えるに礼儀も無く、兄の田や家を奪い、罪人の蒋旭らを匿い、軍事の連絡をする使者を使って都の様子を窺わせた。そこで朝弼を罷免して、その子の昌祚に嗣がせて禄を半分にした。朝弼は怏々として楽しまず、ますます放縦になった。朝弼が母の葬儀で南京に来ると、都御史は朝弼を南京に留め置くよう願い出た。詔によりテンに帰ることを許されたが、テンの政治に関与することは禁じられた。朝弼は憤慨して、昌祚を殺そうとした。巡撫と按察使から交互に朝弼の行状についての報告が入った。あわせて殺人や蛮族との内通などの諸々の違法行為を告発され、ついに詔により投獄され、死刑を検討された。今までの功績により南京に禁錮となり、卒去した。



昌祚は初め都督僉事・総兵官として鎮守した。永い間その地位にいてから公爵を嗣いだ。万暦元年(1573)、姚安蛮の羅思らが叛いて郡守を殺した。昌祚は都御史の鄒応龍は地元の兵と漢人の兵を集めてこれを討伐し、向寧・鮓摩など十以上の寨を攻め落として賊の拠点を一掃し、羅思らを全員捕らえた。十一年(1583)、隴川の賊の岳鳳が叛いて緬甸に付き、緬甸の兵とともに近隣の土司を攻撃した。昌祚はジ海に本陣を置き、裨将の鄧子龍・劉テイらに、木邦で叛逆した酋長の罕虔を斬るよう命じたが、暑さと瘴気のために軍は撤退した。翌年、再び兵を出して罕虔の以前の根拠地を攻撃した。三道から同時に攻め入り、酋長の罕招らを捕らえた。さらに猛臉で緬の兵を破った。このため岳鳳は降伏した。論功により太子太保を加えられ、削減されていた禄を元通りにされた。再び出兵して羅雄にいた反逆者の諸蛮を平定したので、また銀幣を賜った。緬の兵が猛広を攻めると、昌祚は兵を糾合して永昌に本陣を置いた。緬人は遁走し、これを那莫江まで追撃したが、瘴気が起こったので帰還した。二十一年(1594)、緬人がまた攻め込んできたので、昌祚はこれを撃退した。連戦連勝しついに緬を屈服させた。ちょうど蛮族の間で内乱が起こったので帰還した。



沐氏はテンにいることが長く、その権威は日ごとに盛んとなって、親王のように尊重されるようになった。昌祚が外出したとき、僉事の楊寅秋が道を開けなかった。昌祚は楊寅秋の輿を担ぐ者を鞭打った。楊寅秋がこれを朝廷に訴えたので、詔が下され厳しくとがめられた。病気になったので、子の叡が代わって鎮守した。武定の土豪の阿克が叛いて、政庁の城を攻め、脅迫して府の印を持ち去った。叡はこのために投獄され、昌祚が再び鎮所の政務を執ることとなった。昌祚が卒去すると、孫の啓元が嗣いだ。啓元が卒去すると、子の天波が嗣いだ。天波が治めてから十年以上して土司の沙定洲が乱を起こした。天波は永昌に逃れ、乱が平定されるとテンに戻った。永明王の由榔がテンに入ると、天波を元の官職に任命した。天波が永明王に従って緬甸に入ると。緬人は永明王に危害を加えようとし、天波は屈せずに死んだ。これ以前のこと、沙定洲の乱のとき、天波の母の陳氏と妻の焦氏は焼身自殺した。後に天波が緬に逃亡したとき、妾の夏氏は追いつけなくなり、首を吊って自殺した。数十日経ってから棺に納めたが、その体は損傷していなかった。人々がその節義に感銘したためである。




本来は雲南は太祖十八男の朱ヘンを王として封じていましたが不法により除かれ、その後も何度か試みられたものの上手くいかずに結局は沐氏が王のような立場となったのです。
遠隔地であったのでこのような形態が許されたのでしょうが、おそらく呉三桂も同じ雲南の地にあってこのような立場で家を伝えていけると思っていたのでしょう。


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