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SHA 2020/04/04 19:13

「空母セアドア・ルーズベルト」

元ネタは第26代米大統領

「セオドア・ルーズベルト」は、アメリカ海軍の「ニミッツ級航空母艦」の4番艦。
1986年10月25日に就役し、2020年で艦歴34年となるベテラン空母。
建造には、ニミッツ級で初めての船体各所を「モジュール化」して組み立てる方式が取られた。
大型機器を先に搭載するなどしたため、組み立てた後に再度溶接する作業が減少し、工期は短くなっている。
これ以降のニミッツ級は、全てこの工法で建造されることになる。

湾岸戦争

1990年12月28日…セアドア・ルーズベルトと、第8空母航空団は「砂漠の盾作戦」のために、母港のノーフォークを出港。
「砂漠の盾作戦」とは、イラクとの湾岸戦争における作戦の1つ。
イラクによるクウェート侵攻から7日以内に、アメリカや同盟国の軍用機が、サウジアラビア国内に配備された。
セアドアも、1991年1月21日にはペルシャ湾に到着…先に展開していた「空母ミッドウェイ、レンジャー」と合流した。
これにより、紅海に展開した「空母サラトガ、アメリカ、ジョン・F・ケネディ」と合わせて、合計6隻の空母がイラクをぶっ潰すため、臨戦態勢に入った。
作戦初期の段階では、セアドアを含む空母群は、イラクから離れたオマーン湾に展開していた。
この配置は、「ペルシャ湾にはイラク海軍の脅威があるのと、イラク空軍機からの対艦攻撃も懸念されていたため」とされる。
そのため、紅海に展開する空母群よりも、出撃1回あたりにかかる飛行時間が長くかかっていた。
また、空軍からの空中給油機の支援も限定的であったことから、出撃数を稼ぐことができなかった。
しかし…2月3日にペルシャ湾の制海権が確保されたことにより、セアドアの空母群は、クウェート沖まで北上することができ…これ以降は出撃数が増加した。

その後…セアドアの第8空母航空団は、2月28日の停戦までに4,149回の出撃と、450万ポンドの爆弾投下を記録。
これは参加した空母6隻中最多の記録…らしいよ。
一方で損失も多く、2月2日に所属の「艦上攻撃機A-6 イントルーダー」1機を撃墜され、乗員2名を失う。
1月24日と2月5日には「戦闘機F/A-18 ホーネット」を事故で2機失っている。
航海中と、出港直後にも「電子戦機EA-6 プラウラー」を事故で損失しているため、合わせて4機を失った。
これは…運用損失だけを見ても、平時の航海ではまずない数字であり、実戦環境の厳しさを物語っている。

ドンパチ賑やか

2001年9月…大西洋を通過後、セアドア・ルーズベルトは「不朽の自由作戦」の支援を行った。
作戦の目的は、周辺諸国と協力して「国際テロ組織アルカイダ」を攻撃し、アフガニスタンに安定政権を樹立することであった。
2003年には「イラク戦争」にも参加…3月16日には「空母ハリー・S・トルーマン」と共にイラクを空爆。
2005年9月1日、ペルシャ湾への6ヶ月の定期配備に就き、再び、不朽の自由作戦を支援。
この配備では、スペイン海軍のフリゲート「アルバロ・デ・バサン」が、外国海軍として初めて、セアドア・ルーズベルト空母戦闘群の戦列に加入。
また、2006年に退役する「戦闘機F-14 トムキャット」の最後の巡航と言うことで、注目されたそうな。

感染

そんなドンパチ賑やかなセアドアだけど、現在は問題も発生しているよ
2020年3月26日までに、空母セアドア・ルーズベルト内で、新型コロナウィルスの感染者が8人確認された。
そのため…グアムに停泊中のセアドアは、乗船する約4000人の検査を実施すると、明らかにした。
一方で、日本の厚生労働省のホームページによると、3月29日12時現在…アメリカ国内の感染者は12万人を超えた。
この事態に、アメリカ海軍の「病院船コンフォート」も出動し、ニューヨークで活動している。


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SHA 2020/04/01 14:52

自分、あきつ丸であります。 艦隊にお世話になります。

上陸戦はいいぞぉ・・・

1920年代…日本陸軍は「上陸戦」に関心を示していた。
その理由は…島国である日本の地理的条件、ガリポリ上陸作戦などの第一次世界大戦の戦訓、在フィリピンのアメリカを仮想敵国とする方針から…である。
そんなわけで、1920年代中期には、上陸用舟艇として「小発動艇(小発)・大発」を実用化。

さらに、1930年代中期…世界初のドック型揚陸艦とも言われている「神州丸(神洲丸)」を完成させた。
神州丸は、従来の軍隊輸送船と異なり、多数の上陸用舟艇を格納庫に搭載しており、船尾から迅速に発進可能だった。
上陸部隊の支援を目的とする「航空能力」もあり、その発進にはカタパルトを使用していた。

陸軍が、このような本格的な揚陸艦を開発したのには、「上陸戦に対する日本海軍の関心の薄さ」が、背景にある。
当時の日本海軍は、戦艦や巡洋艦といった「戦闘艦」に注目しており、揚陸艦のような「補助艦艇」の開発には、極めて消極的だった。
上陸戦のみならず、遠隔地への軍隊輸送・船団護衛に対しても、理解が少なかった…と言われる。
そんなこんなで、「俺らがやらねば誰がやる!」という感じで、必然的に日本陸軍が、上陸用舟艇などの開発を行う必要があった。

ちなみに、陸軍が海軍とは別に、「独自の船舶部隊」を保有する事は、当時のアメリカ陸軍でも行われていた。
現代でも、アメリカ陸軍は、大規模な船舶部隊を海軍とは別に保有し、「ラニーミード級汎用揚陸艇」などを運用している。

あきつ丸完成

完成した「神州丸」は、日中戦争の上陸戦・輸送任務で、その能力を発揮し活躍。
この「神州丸」の成功により、陸軍は「もっと作ろうぜッ」というテンションになり、「特種船(揚陸艦)」の増産を計画した。
しかし
予算の制約により、大量の特種船を陸軍省保有船として維持する事は難しかった。
このため、陸軍は戦時での徴用を前提として、民間海運会社に補助金を出し、建前上とはいえ、「特種船を民間籍の商船」として建造することにした。
こうして…「あきつ丸」が、太平洋戦争中の1942年(昭和17年)1月30日に竣工した。

特徴であります

あきつ丸の特徴は、船内に広い舟艇格納庫を設けている事で、ここに大量の上陸艇を搭載していた。
そして船尾には門扉があり、ここから滑走台を通して、上陸艇を発進させる事ができた。
あきつ丸1隻で、兵士約1,000名、1個大隊が上陸可能

また、上部には飛行甲板と格納庫があり、上陸支援用の航空機を搭載、発艦させられるようになっていた。
この為、「陸軍空母」とも呼ばれたりもする。
甲板後部には、デリック(クレーン)と船幅いっぱいのエレベーターが鎮座。
着艦用の設備は無いので、発艦した機体は、味方の勢力圏や占領した飛行場などに着陸するしかなかった。
それらが確保出来ない場合は、機体を捨てて脱出するハメになる。

蘭印作戦

そんなこんなで…「あきつ丸」および「神州丸」は、南方資源確保のため、1942年1月11日より始められた「蘭印作戦(オランダ領インドネシア)」に動員。
最終目標は、オランダ軍・イギリス軍・オーストラリア軍・アメリカ軍の連合軍約8万強が、守備するジャワ島の制圧だった。
当時…東南アジアのほぼ全域を掌握していた日本軍にとって、このジャワ島上陸作戦は、南方作戦の総決算でもあった。
同時に、100隻弱の船団を使用する南方作戦最大規模の上陸作戦だった。
2月18日、西部ジャワ島上陸部隊である「神州丸」は「あきつ丸」などとともに、総計56隻の大船団を編成し、ベトナムのカムラン湾を出港。
27日、日本軍上陸を阻止すべく出撃した連合軍艦隊と、日本海軍第3艦隊との間で数日に渡り「スラバヤ沖海戦」が発生。
3月1日0時、ジャワ島のメラク湾に入った「あきつ丸」の船団は揚陸作業を開始。
0時30頃には、第1次上陸部隊がジャワ島に無血上陸。
第2師団を筆頭に、各上陸部隊は快進撃を続け、5日には首都バタビアを占領し、7日には要衝バンドンに進出。
今村中将以下第16軍は、3月10日にバンドンに入城し、蘭印作戦は日本軍の完勝に終わった。

お前が護衛空母になるんだよ!

ジャワ島上陸作戦後…「あきつ丸」は、その優秀な積載・揚陸能力を生かし、他の特種船と共に輸送任務に就いた。
特筆すべき点として、連日空襲を受けるため、海軍の空母機動部隊でさえ入港しなかった「要衝ラバウル」へ、3回も入港している事が挙げられる。
時は流れて…太平洋戦争中期、アメリカ潜水艦の通商破壊作戦によって、日本の輸送船被害が激増。
これを受けて、日本軍は、オートジャイロである「カ号観測機」を、対潜水艦哨戒機として使用する事を決定。
そして「あきつ丸を護衛空母に改造して、カ号観測機も載せようぜ!」ということになった。
しかし…量産体制が整わなかった上に、「三式指揮連絡機」の方が即戦力として有益だとして、カ号の搭載は見送られた。

1944年4月、あきつ丸は日本に戻り、着艦制動装置や対潜用の迫撃砲などが設置され、護衛空母に改造された。
そして、8月7日より…対馬海峡・朝鮮海峡において「あきつ丸」が対潜哨戒任務を開始。
ところがである!
当時の日本海に、アメリカ潜水艦は侵入していなかったため、対潜水艦戦は起こらなかった。

あきつ丸の最期

そんなあきつ丸ちゃんに、1944年10月に勃発した「フィリピン防衛戦」のために、陸軍第23師団を緊急輸送する任務が与えられた。
この軍隊輸送任務は、「あきつ丸」のほか「神州丸」・「摩耶山丸」・「吉備津丸」の各特種船が受け持った。
これらルソン島行き特種船団は、シンガポール行きタンカー船団とともに「ヒ81船団」を編成。
ヒ81船団は、優秀!な特種船と高速タンカーが主体となり、護衛には海軍の「空母・神鷹」、「駆逐艦・樫」、海防艦7隻が就く、当時の日本軍としては、豪華な編制だった。

11月14日の午前6時、ヒ81船団は、佐賀県と長崎県に跨る伊万里湾を出港。
目視が可能な昼間には、「空母・神鷹」の九七艦攻2機が、常時飛行し哨戒。
また、護衛各艦と「あきつ丸」・「神州丸」は、水中聴音機を使用し、敵潜水艦の接近を警戒。
だが、「あきつ丸」の水中聴音器は故障しがちで、被雷した時には目視監視だったという。
15日正午頃、五島列島沖において…
護衛艦艇および「神鷹」の哨戒の隙を突き、アメリカ「潜水艦クイーンフィッシュ」の発射した2本の魚雷が、「あきつ丸」の左舷船尾に命中。
後部弾薬庫に誘爆、船尾楼部分が吹き飛び、船体の後部1/3は沈下。
急速に左に傾斜し始めた「あきつ丸」は、ボイラーが爆発。
船橋付近では火災も発生、舟艇ドックにも浸水して転覆…その後、沈没した。



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SHA 2020/03/29 16:14

駆逐艦島風です。スピードなら誰にも負けません。速きこと、島風の如し、です!

すっごーい!速い駆逐艦作ろうぜ

後の「島風型駆逐艦」の登場まで、日本海軍の駆逐艦の速力は、1920年(大正9年)に「峯風型駆逐艦の島風(初代)」が打ち立てた、40.698ノットが最高速度であった。
その後、武装や船体を強化しつつ…航続力を延長する方向で進化していった。
しかし、仮想敵のアメリカ海軍が、「新型駆逐艦の速力向上(公試状態38ノット以上)を目指している」という情報を入手。
これにより…日本海軍は、「そいつら超える高速駆逐艦作ってやろうぜ!」って感じになった。
そんなこんなで…日本海軍は、水雷決戦を目的とする「艦隊型駆逐艦の最高峰」を目指し、高速・強雷装の駆逐艦として「島風型」を建造した。

1941年のマル5計画では、島風型16隻の建造計画もあった。
だが、機関の製作が量産に向かないことや、対空・対潜能力をもった「松型駆逐艦」の量産がはじまったこと…大型の駆逐艦は、防空能力に優れた「秋月型駆逐艦」の建造が優先されたこと…
戦局が悪化した…などの理由により、島風型駆逐艦は結局「島風1隻のみ」に終わった。

最高速力は40.3ノットで、試験では40.90ノットも記録していた。
これは、魚雷艇を除いた艦艇の最高記録である
ただし、試験での排水量は「燃料などの消耗品を2/3搭載した状態」でなく、より軽い1/2状態であった。


仲間を救いに

1941年8月に起工した「駆逐艦・島風」は、 1943年5月10日に竣工。
竣工後、島風は訓練部隊の「第十一水雷戦隊」に編成される。
第十一水雷戦隊は、新しく竣工した駆逐艦や、修理などで乗組員の多くが交代した駆逐艦を訓練させるために創設された部隊であり、第一艦隊に属していた。
1943年6月頃…第一水雷戦隊司令官「木村昌福」少将の要望で、北方作戦に投入される事が決まる。

当時、北太平洋の「アリューシャン方面の戦い」における日本軍は、窮地に立たされていた。
このため、日本軍はアリューシャン列島のキスカ島からの撤退を決定。
ところが、潜水艦による撤退作戦は失敗…代わりに、第五艦隊の水上部隊による一挙撤収作戦が立案。
6月中旬…新任の第一水雷戦隊司令官・木村少将は、第五艦隊長官を訪問し、キスカ島撤収作戦について協議をおこなう。
この席上で、木村は「レーダーを装備した新鋭駆逐艦・島風」の派遣を求めた。

7月5日、島風を含む水雷戦隊は、千島列島の幌筵島(ばらむしるとう)に到着。
島風と、「軽巡洋艦・阿武隈、木曾」がレーダーを装備していたが、島風の電探も、見張り警戒用に使用できる程度だった。
また、参加した巡洋艦・駆逐艦は、アメリカ艦艇と誤認させるための迷彩とカモフラージュを行った。


「帰れば、また来られるからな」

7月10日…キスカ島への第一次撤収作戦が開始される。
しかし、キスカ島に近づくにつれ、霧が晴れてきたため突入を断念。
その後も13、14、15日と決行したが…全て途中で霧が晴れてしまい、突入を断念した。
この慎重な木村の行動は、この年の3月初旬に参加した「ビスマルク海海戦」の敵空襲を受けた経験から来ている…と言われる。
「上空援護のない状態での空襲は、水雷戦隊にとって致命的だ…」ということを、木村は嫌というほど知っていた…とされる。
燃料の残量も少なくなってきたことから、木村は15日午前8時20分に、一旦突入を諦め、幌筵島(ばらむしるとう)へ帰投命令を発した。
「帰れば、また来られるからな」と言い残しての命令だった、と言われる。

キスカ島からの撤退は、第五艦隊司令部にとって不満であり…後日、五艦隊参謀が軍令部に「第一次の際は、水雷戦隊に肝なし」と述べている。
さらに連合艦隊司令部、大本営からも「何故、突入しなかった」、「今すぐキスカ湾へ突入せよ」といった、非難を浴びることとなった。
一方の第一水雷戦隊側は、木村司令官の処置を「妥当」とみており、両者の間には温度差があった。
撤退決断時にも、島風艦長の「広瀬弘」は、木村司令官に対し、「本日をおいて決行の日なし、ご決断を待つに」と意見具申している。


奇跡の作戦

7月22日、幌筵島の気象台が「7月25日以降、キスカ島周辺に確実に霧が発生する」との予報を出した。
同日夜、撤収部隊は幌筵島を再出撃。
7月26日17時44分、濃霧により5隻(国後、阿武隈、初霜、若葉、長波)が関係する多重衝突事故が起きた。
単縦陣5番手を航行していた島風は、右側に避けて、難を逃れている。
7月29日、撤収部隊はキスカ島に突入。
13時40分に第一、第二輸送隊ともキスカ入港に成功、14時30分には出港して、撤収に成功。
撤収人員は…海軍2518名・陸軍2669名・遺骨30柱・合計5183名、もしくは5187名であった。

その日の夕方…
撤収部隊は、浮上航行中のアメリカ海軍の潜水艦と、近距離でばったり遭遇。
だが、各艦とも偽装工作をおこなっていたため、アメリカ潜水艦は撤収部隊を「味方のアメリカ艦隊」と誤認。
両者とも、そのまま素通りして行ったという…。
この作戦は、キスカ島を包囲していた連合軍に全く気づかれずに、日本軍が無傷で守備隊全員の撤収に成功したことから「奇跡の作戦」と呼ばれている。


多号作戦

キスカ島撤収作戦後…しばらくは、日本での訓練やテストなどに追われ、南方へ進出するのは1943年9月15日になってからだった。
当時、ソロモン方面では、熾烈な戦闘の連続だったが…
艦隊を組みづらい島風は最前線には投入されず、船団護衛として、内地とラバウル・トラックを往復して過ごしている。
レイテ沖海戦では、沈んでいく「戦艦・武蔵」の救援任務を行うも…
島風が40ノットの高速力を発揮し、魚雷戦をする機会はついに訪れなかった。

レイテ沖海戦後…沈没した「軽巡洋艦・能代」に代わって、島風は第二水雷戦隊の旗艦となる。
そして、レイテ島への増援輸送作戦である「第三次多号作戦」に参加。
第三次作戦の輸送部隊は、低速で中古の輸送船5隻を中心としていた。
これに第二水雷戦隊の司令官「早川幹夫」少将は、低速船団を高速艦で護衛することに疑念を抱いて、反論。
しかし…南西方面艦隊の司令長官「大川内傳七」中将に大本営海軍部、連合艦隊司令部のバックアップ、さらに「これは天皇陛下のご命令である」との「勅命」を持ち出され、観念した。


島風の最期

編成に不安が残ったまま、1944年11月9日、第三次輸送船団がマニラを出撃。
しかし…11月11日、「日本の戦艦部隊がレイテに向け進撃中」との情報により、燃料補給を中断し、引き返してきたアメリカ海軍「第38任務部隊」の艦載機の攻撃に遭う。
アメリカ軍機は戦艦部隊を発見できなかったが、代わりに、島風の第三次輸送船団を発見したのだった。
こうして、13隻のアメリカ空母から、攻撃機347機が発進。
島風座乗の早川少将は、このアメリカ軍機の攻撃を受けて、輸送船に「早急に湾内に突入して揚陸作業を行うよう」命令。
さらに、駆逐艦には煙幕を張らせた。
対空戦闘に際して、島風は誘爆を防ぐため、魚雷を投棄。
狭い湾内での戦闘だったが、その速力と的確な操艦により、爆弾や魚雷の直撃こそ受けなかった。
しかし、多数の至近弾と、機銃掃射により、船体に多数の小破孔が発生して浸水。

島風の救援に接近しようとした「駆逐艦・朝霜」は、アメリカ軍機の機銃掃射のため、接近を断念。
また、島風の松原先任参謀より「帰れ」の命令があり、朝霜は退避。
そして、1944年11月11日…午後5時30分、島風は後部附近の爆発により沈没。
一連の対空戦闘で「朝霜」をのぞく、護衛部隊「島風、浜波、若月、長波、掃海艇30号」、輸送船団「三笠丸、泰山丸、西豊丸、天昭丸」は全滅した。
戦後の1965年(昭和40年)。
呉市長迫町の旧海軍墓地に、島風の戦没者慰霊碑が建立された。
慰霊碑は、島風が高速の駆逐艦であったことにちなみ、軍艦の艦橋をかたどっている。


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SHA 2020/03/25 17:00

最新空母についてる例のアレ…電磁式カタパルト

今回は、最新空母についてる例のアレ…電磁式カタパルトを解説してみるよ。

「電磁式カタパルト」とは…

アメリカ海軍とイギリス海軍が共同開発した、リニアモーターによって空母から固定翼機を発射するシステムのこと。
アメリカの最新空母「ジェラルド・R・フォード級航空母艦」に採用された。
前級の「ニミッツ級航空母艦」の蒸気カタパルトに比べて、維持管理がしやすくなっている。

エネルギー効率が70%と高く、重量容積もほぼ半分なので、艦の重心・容積に与える影響が少ない。
これまでの蒸気パイプが不要となり…ダメージコントロールでも有利となる。
射出可能な重量の範囲も広がり、軽い無人機から、燃料弾薬を満載した有人機まで対応できちゃう。

欠点もあって、原子力など…消費電力を賄える発電能力を持つ電源が必要。
電源が故障した場合、使用する事ができない。
他にも、電磁式カタパルトは技術的に難度が高く、開発が遅れたり、コストが高くなったりするよ。
計画当初では、この電磁式カタパルトをニミッツ級の「10番艦ジョージ・H・W・ブッシュ」に採用する予定だったけど…
開発が間に合わなかったため、従来の蒸気式カタパルトが搭載された。

イギリスの場合…

アメリカの他に、イギリスも電磁式カタパルトの実装を進めていたよ。
イギリス海軍では、クイーン・エリザベス級航空母艦での採用を検討しており、「EMCAT(Electro Magnetic Catapult)」と呼ばれる電磁カタパルトの開発が進められていた。
2010年10月、イギリス政府は、クイーン・エリザベス級にカタパルトを搭載し、艦載機型の「戦闘機F-35C」を購入すると発表。
しかし、2012年5月にF-35Cのコストが当初の見積もりより増加したことから…
最終的に「短距離離陸垂直着陸機・STOVL機」である「F-35B」が採用され、これにより…カタパルトの搭載自体が見送られた。


中国の場合…

「1990年代初めに、蒸気カタパルトと電磁カタパルトの開発作業を行っている」…と、いくつかの外国メディアが指摘している。
オーストラリアの退役空母「メルボルン」をスクラップとして購入し、備え付けられていた蒸気カタパルトを回収・研究した…とされる。
また、アメリカの防衛産業企業「L-3 コミュニケーションズ」の子会社「Power Paragon」のエンジニアで、中国系アメリカ人のチ・マクにより、電磁式カタパルトの技術を入手した…とも言われている。

2015年9月上旬には、中国の基地に電磁カタパルトと蒸気カタパルトと推測されるものの設置が開始された。
同年11月に開催された中国国際工業博覧会では、中国工程院による電磁式カタパルトの模型が公開される。
2016年10月になると、中国軍の無人機を電磁式カタパルトに設置しているのも、確認されている。

アメリカ海軍のような…空母への搭載は、まだみたいだね。
でも、時間の問題かな?そのうち、アメリカも追い抜くぐらいのすっごーい!カタパルト作ったりして…

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Youtubeの動画を同人誌にしたやつhttps://www.dlsite.com/home/work/=/product_id/RJ247893.html

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SHA 2020/03/02 16:00

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