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2020年 04月の記事 (5)

SHA 2020/04/14 20:01

日本が母港の米空母ロナルド・レーガン

レーガン大統領

「ロナルド・レーガン」は、ニミッツ級航空母艦の9番艦で、2003年7月12日に就役。
レーガン元米大統領の妻であるナンシー・レーガンによって命名された。
ニミッツ級に命名された他の人物と違って、レーガン元大統領は、その任期中に最高司令官であった以外に、海軍との関係はなかった。
けど、レーガン政権下では…ソ連に対抗して「軍艦いっぱい作ろうぜ計画・600隻艦隊構想」もやっているから…完全に海軍と無関係ってわけじゃないと思うよ…
ちなみに…この計画によって、1987年には594隻もの軍艦を保有していた。

日本が母港

このレーガンの母港は、神奈川県の「横須賀海軍施設」であり、アメリカ国外では、唯一空母の母港として機能している。
これまでに横須賀を「事実上の母港」としてきた空母は、全部で5隻存在する。
「ミッドウェイ(1973年 - 1991年)」、「インディペンデンス(1991年 - 1998年)」、「キティホーク(1998年 - 2008年)」、「ジョージ・ワシントン(2008年 - 2015年)」、そして、ロナルド・レーガン。
横須賀に配備する空母に関しては…対日感情に配慮し、「第二次世界大戦で活躍したアメリカ海軍将校の名前は避けるなど」の措置が取られている。

横須賀って何だよ

横須賀は1903年以降、大日本帝国海軍により「横須賀海軍工廠」として利用され…海軍軍法会議所や横須賀鎮守府などの施設が置かれた。
日本の敗戦後の1945年9月2日…日本を占領下に置いた連合国軍の1国であるアメリカ海軍に接収され、これらの施設はアメリカ海軍が使用した。
連合国軍による占領終了後…
1952年4月28日に発効した「日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約(旧安保条約)」の批准を受けて、アメリカ海軍がそのまま利用。
生活・娯楽施設などを拡充させ、現在に至っているよ。
2019年12月18日 横須賀・アメリカ海軍「第7艦隊」の管理内

ミサイル付き

レーガンはニミッツ級として初めて、近接防御システムに、「CIWSファランクス(後に装備)」に代わって、「RAM(RIM-116)」を2基装備している。
「RAM」とは、アメリカとドイツが共同開発した近接防空ミサイル。
技術や基本設計は、既存のミサイルから流用されている部分が多いため、1978年にさっそく最初の試射が行われた。
レーガンのような空母以外にも、駆逐艦や揚陸艦などに装備されている。

台風や地震

2008年6月にフィリピンに上陸した「平成20年台風第6号・フンシェン」。
レーガンは、この台風の被害に遭った地域へ、救援活動を行った。
「ヘリコプターSH-60 シーホーク」や「輸送機C-2 グレイハウンド」を使って、米・真水などの物資を災害地域に届けた。

2011年3月11日の東日本大震災後…他7隻の艦船と共に、支援活動「トモダチ作戦」開始…関東〜東北沖に出動。
米韓合同演習のために西太平洋を航行中であったロナルド・レーガン空母打撃群は、震災2日後の3月13日には、海上自衛隊との震災対応に関する作戦会議を実施。
レーガン空母打撃群は、自軍の艦載ヘリコプターと、自衛隊のヘリコプターのための洋上給油拠点として運用された。
さらに、レーガンの将兵からは、毛布やセーターなど1,000着以上の寄付が行われている。

感染者

2020年3月…横須賀海軍施設に、停泊中のロナルド・レーガンにおいて…乗組員2人が、新型コロナウィルスに感染している事が判明した。
横須賀市の公式ホームページによると、「日本に勤務する初の米軍関係者のコロナウィルス感染者」と、書かれている。
また、その感染者は3月26日現在、基地内で隔離中であり…患者の症状から、アメリカ国内で感染したもの、と見られている。
その他…「空母ニミッツ、セアドア・ルーズベルト、カール・ヴィンソン」、「強襲揚陸艦ボクサー、エセックス」などでも感染が確認された。

アメリカ以外では、フランス海軍の「空母シャルル・ド・ゴール」でも、感染が判明。
2020年4月、大西洋上で行動中…1760人のスタッフのうち、50人の陽性患者が存在することが分かった。
その中の3人が、フランス南東部「トゥーロン」の病院まで空輸された。
4月12日には、シャルル・ド・ゴールがトゥーロンに停泊…14日間の検疫を行う予定となっている。

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SHA 2020/04/10 23:02

戦艦大和・最後の艦長「有賀幸作」

有賀幸作

「有賀幸作(あるが こうさく)」は、「戦艦大和」最後の艦長として有名。
彼は長野県の朝日村、今の辰野町に金物商・村長「有賀作太郎」の長男として生まれた。
父の作太郎は、日露戦争の旅順攻囲戦に参加しており、二〇三高地戦で殊勲をあげ、功六級金鵄勲章と多額の年金を授かっていた。
そんな父だが、息子の軍人志願には反対だった。
しかし…父の思いとは裏腹に、有賀幸作は海軍兵学校に入り、1917年11月24日に卒業。
同期には、大和の艦長を務めた後に第2艦隊参謀長となる「森下信衛」、「大和」最後の戦いとなる「坊の岬沖海戦」で、第二水雷戦隊司令官を務めた「古村啓蔵」などがいる。

実家の平野屋金物店は、有賀の相続放棄後、弟の次郎が継ぐはずであったが…父、弟の次郎、三男の正次、妹のふさへが相次いで病死。
そのため、名義上は有賀が家督を継ぎ、金物店店主となっていたが、実際は母親が一人で切り盛りしており、大和沈没時期には閉店していた。

そんな有賀は「初代神風型駆逐艦・水無月」から経歴をスタートさせ、水雷戦隊の指揮官として経験を重ねる。
1922年には、「戦艦・長門」の四番砲台長に任命されたが、規則のうるさい戦艦勤務に戸惑うこともあったそうな…

軍人としての覚悟

1924年1月27日…宮坂好子と結婚、10月に長男の正幸が誕生。
有賀は家族思いの人物であり、帰宅すると女中にまで土産を配った。
さらに、有名料理店や遊園地、観光地を巡るなど、家族団欒につとめていた。
一方で、潜水艦事故で沈んだ第六潜水艇と「艇長の佐久間勉」の遺書を見学した時には、息子に軍人としての覚悟を語った…という。

完全に余談になっちゃうが…「佐久間勉」は海軍軍人で、第六潜水艇隊の艇長だった。
1910年4月15日、第六潜水艇が訓練中に事故が発生…乗組員14名全員が殉職。
殉職した乗組員は、ほぼ全員が自身の持ち場を離れず死亡しており、持ち場以外にいた乗組員も、潜水艇の修繕に全力を尽くしていた。
佐久間自身は、艇内にガスが充満して死期が迫る中…遺書を書いた。
内容は、明治天皇に対する潜水艇の喪失と部下の死の謝罪、事故が潜水艇発展の妨げにならないことの願い、事故原因の分析を記した。

この、佐久間が記した遺書は、39ページにも及ぶ長いものだった。
沈没した潜水艇が引き上げられた後に発表された佐久間の遺書は、当時の国内外で大きな反響を呼んだ。
その佐久間が亡くなった「第六潜水艇」を有賀が見学し…その時に感じた軍人としての覚悟を、息子に語った。
そして…後に有賀も、佐久間とは少し違うが…艦長として大和と運命を共にすることになる。

水虫

1938年12月、有賀は掃海艇6隻からなる第一掃海隊司令に任命され、日中戦争に加わった。
掃海任務だけでなく、上陸支援や中国軍掃討任務もこなしたため、中国側から懸賞金をかけられ、その値段が徐々に上がっていったという一幕もある。
1941年6月18日には、第四駆逐隊司令に任ぜられ、最新の「陽炎型駆逐艦4隻(嵐、萩風、野分、舞風)」を指揮下においた。
その後…有賀は遺書を書いた…この遺書を、妻の好子が読むのは、1945年9月20日に、有賀の戦死内報が届いた時とされる。

太平洋戦争緒戦では、第四駆逐隊司令として「近藤信竹」海軍中将指揮する南遣艦隊に所属し、「マレー作戦」を支援。
マレー作戦とは、日本軍が実施した、南方作戦内のイギリス領マレー方面の作戦。
1941年12月8日朝、「駆逐艦・野分」に命じてノルウェー船を拿捕。
日本軍のシンガポール占領の後、ジャワ海に進出。
3月1日、有賀指揮下の「駆逐艦・嵐と野分」は、商船3隻(4000t、3000t、3000t)、油槽船2隻(1500t)を撃沈し、商船ビントエーハン号(1000t)を拿捕。

さらにイギリスの「駆逐艦ストロングホールド」、アメリカの「砲艦アッシュビル」を沈めた。
インドネシアのジャワ攻略戦の際、「駆逐艦・嵐」が、逃走する駆逐艦ストロングホールドを追撃。
距離10kmで、嵐の砲術長と水雷長が「撃たせてくれ」と懇願。
しかし…有賀は指揮所で「足が痒くてかなわん。薬を塗ってくれ」と衛生兵に水虫の治療をさせ、発砲を許さなかった。
距離6000mになってから、大声で射撃を命じ、駆逐艦ストロングホールドを撃沈した。

有賀は極度の水虫にかかっており、艦内でも草履を履いていた。
見事なハゲ頭の上に、ヘビースモーカーだったため、部下から「エントツ男」というあだ名もつけられていた。

戦上手

3月4日には、「重巡洋艦・愛宕」と共同で「オーストラリア護衛艦ヤーライ」と、油槽船1隻を撃沈し、「オランダ商船チャーシローア」を拿捕。
有賀は、机上の理論より、実戦での経験を大切にする…当時としては数少ない軍人の1人であった。
さらに…第四駆逐隊で有賀の部下だった者は、戦後の戦友会で「戦があれほど上手い人はいなかった」「困った顔を見たことがない。安心できた」「部下を可愛がり、怒ったことはなかった」など、戦争が終わってからも高く評価されている。

元「重巡洋艦・鳥海」高射長は、忍耐力と決断力がある点で、キスカ島撤退作戦で有名な「木村昌福少将」と似ていると評した。
また、有賀があまりにも前線に出るため、心配した連合艦隊司令長官「山本五十六」が「有賀を殺すな」と言ったという。

教頭は嫌だ

そんな戦上手と言われる有賀は、ミッドウェー海戦に参加。
ミッドウェー海戦では、大破炎上した「空母・赤城」を指揮下の「駆逐艦・野分、嵐」の魚雷によって、沈没処分するという悲劇を味わった。
有賀は「初めて撃った魚雷が赤城に対するものだった」ことを嘆き続けたという。

1943年3月1日、「重巡洋艦・鳥海」の艦長となり、南方に進出。
アメリカ軍機から10回近く襲撃されたが、高射砲長との息のあった連携で鳥海は被弾しなかった。
1944年4月21日、デング熱にかかり、日本へ帰還。
帰国後は、横須賀の水雷学校で教頭をしていた。
しかし、実戦畑を歩いてきた有賀にとっては…机上の学問を教える教頭の職は、本意ではなかったとされる。

「大和」艦長

1944年11月6日、遂に…戦艦「大和」の第5代の艦長を命じられた。
これは有賀にとって、久しぶりの海上勤務である上に、帝国海軍の象徴とも言える「大和の艦長」になったことは、非常に嬉しい事だった。
この事を、彼は長男の正幸宛に手紙で送った。
戦艦大和は、秘匿艦であり…本来ならば「ウ五五六」と暗号で記述するべきだったにも関わらず、手紙で「大和艦長 有賀幸作」と堂々と艦名を書いていた。
さらに、手紙には『大和艦長拝命す。死に場所を得て男子の本懐これに勝るものなし』と書いてあり、これを読んだ息子・正幸は、有賀が死を覚悟したことを悟ったという。

その戦艦大和において、有賀の豪放磊落な性格は、大和乗組員に好意を持って受け入れられたという。
連日の訓練で常に先頭に立ち、防寒コートも手袋着用せずに艦橋に立つ有賀の姿は、畏敬の念で見られた。
一方で、海軍兵学校同期生の古村啓蔵は、有賀が「燃料不足で主砲の訓練さえできない」と弱音を吐くのを見て驚いたという。

最期の戦いへ

1945年…戦艦大和の海上特攻を含む「天号作戦」が開始される。
その際…大和やその他の艦に乗艦していた傷病者と古参兵、兵学校卒業直後の少尉候補生計53名が、第二艦隊司令長官「伊藤整一」中将の命令により、退艦命令が出される。
しかし『戦艦大和の主』を自称していた第二主砲砲塔長・奥田少佐は、これを激しく拒否。
奥田少佐は「大和が死にに行くのなら、ワシが付いて行って最後を見てやらねばならぬ」と激怒し、艦橋に居た有賀の所に怒鳴り込んで行った。

有賀は、怒り狂う奥田少佐に対し…明治天皇の陸海軍への言葉・詔勅「軍人勅諭」を例に出しながら説得。
有賀の説得に、奥田少佐も折れ…退艦命令を受け入れる。
この時…有賀・奥田両名は涙を流し、その姿に艦橋に居た将校・兵士も思わずもらい泣きをしたという。

4月7日…沖縄へ海上特攻隊として向かった大和の部隊と、アメリカ空母艦載機部隊の間で「坊ノ岬沖海戦」が発生。
300機以上の艦載機の攻撃を受け、大和は撃沈。
艦長の有賀も、沈没した大和と運命を共にした。
彼の最期は、諸説あるが…「大和の対空指揮所にあった羅針儀にしがみ付き、そのまま沈んだ」…とする説が有力になっている。
墓所は、有賀の故郷である長野県辰野町見宗寺。
近くの法性神社には、「戦う大和と有賀艦長の肖像レリーフ」で飾られた自然石の記念碑が建立されている。




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SHA 2020/04/08 13:33

戦争・難民・コロナ「マーシーの戦い」

「マーシー級病院船」

「マーシー級病院船」とは、アメリカ海軍の病院船の艦級。
病院船とは…病気・ケガをした人、難船者に援助を与え、治療と輸送を目的とした船舶のこと。
元々は、アペックス・マリン社の「サン・クレメンテ級タンカー」で、それを改装して出来上がったのがマーシー級。
1983年度予算で「ワース」が改装されて「1番艦マーシー」となり、翌年度予算で「ローズ・シティー」が改装されて「2番艦コンフォート」となった。

基本設計は、タンカー時代のものが踏襲しているけど、上部構造物は大幅に追加されている。
船体中央部には、ヘリコプター甲板が設けられており、2隻の小型ボートも搭載している。
1,000床の病床に加えて、手術室12室やコンピュータ断層撮影(CT)装置など、充実した医療能力を備えている

通常は、アメリカ東海岸と西海岸に1隻ずつ配備されており、少数の民間人スタッフで維持されている。
基本的に、岸壁に係留されるか…港湾内に停泊して待機し、外洋には、機関の整備と点検のために年7日ほど航海するのみ。
出動の際は、医療スタッフや支援スタッフを招集・乗船させる手はずで、出航まで5日ほどかかる予定となっている。

1番艦マーシー

お次は、「1番艦マーシー」を解説してみるよ。
元々、石油タンカーの「ワース」だったマーシーは、病院船に改造され1986年11月に就役。
1987年2月27日、フィリピンと南太平洋に向けて、演習および人道支援の航海を開始。
スタッフには、陸海空軍の現役兵士や、予備役の人も含まれていたよ。
フィリピンの7つの港、南太平洋の7つの港で、62,000人以上の外来患者と、約1,000人の入院患者が治療を受けた。

1990年8月9日、湾岸戦争に参加。
6ヶ月間にわたって、多国籍軍への医療支援を行い、690名の患者を受け入れ、300件にも及ぶ手術を実施。
ちなみに湾岸戦争では、多国籍軍が240から392名が死亡し、776名が負傷…クウェート軍は4200名が亡くなっている。
交戦国のイラク軍は、20,000から35,000名が亡くなった。
また、民間人にも、数千人以上の死亡・行方不明・負傷者が出ている。

2018年6月10日、マーシーは横須賀に寄港。
これは「災害発生時に、医療拠点として船舶の活用」を検討している日本政府が招致したもの。
14日には、海上自衛隊の自衛艦隊司令部、潜水医学実験隊、「潜水艦救難艦ちよだ」、アメリカ海軍の第7艦隊司令部なども参加した日米衛生共同訓練を実施。

2020年、アメリカ国内で新型コロナウイルスの感染が拡大したことを受け、3月27日までにマーシーがロサンゼルスに到着。
コロナによる肺炎患者のベッドを確保するため、肺炎以外の治療を受けている患者の移転、療養先として使われている。
日本の厚生労働省のホームページによると、2020年4月6日現在のアメリカ国内におけるコロナウイルス感染者数は、30万人を超えている。
死者も9千人を超えており、「病院船マーシーのベッドだけでは足りない」という声もある。


2番艦コンフォート

最後に、マーシー級病院船の「2番艦コンフォート」を解説するよ。
コンフォートも、マーシー同様、湾岸戦争に参加。
8000人を越える外来患者を治療し、「強襲揚陸艦イオー・ジマ」の蒸気漏れ事故によって負傷した4名の兵士を含む700名を収容した。
2100回を超えるヘリコプターの離着艦、1600もの眼鏡の作成、80万食に及ぶ給食、CTスキャンを含む1340回のX線検査などを行った。

1994年6月、「ハイチ難民のための手続きセンター」として展開する「シー・シグナル作戦」に参加。
928名の軍人、様々な政府機関職員、国際機関職員を乗船させ、カリブ海へ出発。
1ヶ月に及ぶ活動で、乗艦した難民は1100名に及んだ。

2001年9月11日の「アメリカ同時多発テロ事件」発生時にも、医療支援をしていた。
コンフォートには、561名の切り傷、呼吸器疾患、骨折およびその他の軽傷を負った患者が、治療に訪れた。
また、コンフォートの心理学チームによる、500件の精神衛生相談を実施。
ニューヨークのマッサージ・セラピストのボランティアを受け入れ、1359件の医学治療マッサージも行った。

その他にも、アメリカ南東部を襲った「ハリケーン・カトリーナ」や、2010年の「ハイチ地震」の際にも、医療支援をしている。
そして、2020年3月…コンフォートはニューヨーク州へ出動。
ニューヨーク内の、コロナによる肺炎患者のベッドを確保するために、肺炎以外の患者の移転先、または療養先として使用している。


日本の場合

ちなみに…現在の海上自衛隊には、「病院船」が在籍していない。
だけど、「特務艦はしだて(迎賓艦)」や潜水艦救難艦が、有事や災害時の医療機能を考慮して設計されているよ。
「特務艦はしだて」は、国内外の賓客を招いての式典や、海上自衛隊を訪問した諸外国の将校との会議・会食、マスコミやメディア関係者との懇親会などを行う艦艇。

この「はしだて」には、阪神・淡路大震災以降、重視されている災害派遣における医療支援機能や救難指揮機能を有している。
会議室は災害時の対策本部として運用可能で、パーティー用スペースはテントを張って、マットレスを並べることで臨時の医療室とすることができる。
休憩室も、折り畳みベッドを並べて、病室とすることができる。
これら医療支援任務に用いられる医療器具は、はしだての備品として常に搭載されている。

もう1つの「潜水艦救難艦」は、海中で遭難・浮上不能になった潜水艦などの乗員救助の任に当たる艦のこと。
海上自衛隊の「潜水艦救難艦・2代目ちはや」は、医療機能が充実しており、手術室やX線撮影室が存在する。
さらに…救助した乗員のために80名分の居住区を確保しているが、ここは「病室への転用」も考えられた作りになっている。

その他、「おおすみ型輸送艦」、「ひゅうが型護衛艦」、「いずも型護衛艦」にも、陸上自衛隊の「野外手術システム」を搭載することで、高度な医療機能を有することが可能。
自衛隊には、アメリカみたいな病院船はないけど、医療設備が整ったお船がちゃんとある…ってことだね。


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SHA 2020/04/04 19:13

「空母セアドア・ルーズベルト」

元ネタは第26代米大統領

「セオドア・ルーズベルト」は、アメリカ海軍の「ニミッツ級航空母艦」の4番艦。
1986年10月25日に就役し、2020年で艦歴34年となるベテラン空母。
建造には、ニミッツ級で初めての船体各所を「モジュール化」して組み立てる方式が取られた。
大型機器を先に搭載するなどしたため、組み立てた後に再度溶接する作業が減少し、工期は短くなっている。
これ以降のニミッツ級は、全てこの工法で建造されることになる。

湾岸戦争

1990年12月28日…セアドア・ルーズベルトと、第8空母航空団は「砂漠の盾作戦」のために、母港のノーフォークを出港。
「砂漠の盾作戦」とは、イラクとの湾岸戦争における作戦の1つ。
イラクによるクウェート侵攻から7日以内に、アメリカや同盟国の軍用機が、サウジアラビア国内に配備された。
セアドアも、1991年1月21日にはペルシャ湾に到着…先に展開していた「空母ミッドウェイ、レンジャー」と合流した。
これにより、紅海に展開した「空母サラトガ、アメリカ、ジョン・F・ケネディ」と合わせて、合計6隻の空母がイラクをぶっ潰すため、臨戦態勢に入った。
作戦初期の段階では、セアドアを含む空母群は、イラクから離れたオマーン湾に展開していた。
この配置は、「ペルシャ湾にはイラク海軍の脅威があるのと、イラク空軍機からの対艦攻撃も懸念されていたため」とされる。
そのため、紅海に展開する空母群よりも、出撃1回あたりにかかる飛行時間が長くかかっていた。
また、空軍からの空中給油機の支援も限定的であったことから、出撃数を稼ぐことができなかった。
しかし…2月3日にペルシャ湾の制海権が確保されたことにより、セアドアの空母群は、クウェート沖まで北上することができ…これ以降は出撃数が増加した。

その後…セアドアの第8空母航空団は、2月28日の停戦までに4,149回の出撃と、450万ポンドの爆弾投下を記録。
これは参加した空母6隻中最多の記録…らしいよ。
一方で損失も多く、2月2日に所属の「艦上攻撃機A-6 イントルーダー」1機を撃墜され、乗員2名を失う。
1月24日と2月5日には「戦闘機F/A-18 ホーネット」を事故で2機失っている。
航海中と、出港直後にも「電子戦機EA-6 プラウラー」を事故で損失しているため、合わせて4機を失った。
これは…運用損失だけを見ても、平時の航海ではまずない数字であり、実戦環境の厳しさを物語っている。

ドンパチ賑やか

2001年9月…大西洋を通過後、セアドア・ルーズベルトは「不朽の自由作戦」の支援を行った。
作戦の目的は、周辺諸国と協力して「国際テロ組織アルカイダ」を攻撃し、アフガニスタンに安定政権を樹立することであった。
2003年には「イラク戦争」にも参加…3月16日には「空母ハリー・S・トルーマン」と共にイラクを空爆。
2005年9月1日、ペルシャ湾への6ヶ月の定期配備に就き、再び、不朽の自由作戦を支援。
この配備では、スペイン海軍のフリゲート「アルバロ・デ・バサン」が、外国海軍として初めて、セアドア・ルーズベルト空母戦闘群の戦列に加入。
また、2006年に退役する「戦闘機F-14 トムキャット」の最後の巡航と言うことで、注目されたそうな。

感染

そんなドンパチ賑やかなセアドアだけど、現在は問題も発生しているよ
2020年3月26日までに、空母セアドア・ルーズベルト内で、新型コロナウィルスの感染者が8人確認された。
そのため…グアムに停泊中のセアドアは、乗船する約4000人の検査を実施すると、明らかにした。
一方で、日本の厚生労働省のホームページによると、3月29日12時現在…アメリカ国内の感染者は12万人を超えた。
この事態に、アメリカ海軍の「病院船コンフォート」も出動し、ニューヨークで活動している。


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SHA 2020/04/01 14:52

自分、あきつ丸であります。 艦隊にお世話になります。

上陸戦はいいぞぉ・・・

1920年代…日本陸軍は「上陸戦」に関心を示していた。
その理由は…島国である日本の地理的条件、ガリポリ上陸作戦などの第一次世界大戦の戦訓、在フィリピンのアメリカを仮想敵国とする方針から…である。
そんなわけで、1920年代中期には、上陸用舟艇として「小発動艇(小発)・大発」を実用化。

さらに、1930年代中期…世界初のドック型揚陸艦とも言われている「神州丸(神洲丸)」を完成させた。
神州丸は、従来の軍隊輸送船と異なり、多数の上陸用舟艇を格納庫に搭載しており、船尾から迅速に発進可能だった。
上陸部隊の支援を目的とする「航空能力」もあり、その発進にはカタパルトを使用していた。

陸軍が、このような本格的な揚陸艦を開発したのには、「上陸戦に対する日本海軍の関心の薄さ」が、背景にある。
当時の日本海軍は、戦艦や巡洋艦といった「戦闘艦」に注目しており、揚陸艦のような「補助艦艇」の開発には、極めて消極的だった。
上陸戦のみならず、遠隔地への軍隊輸送・船団護衛に対しても、理解が少なかった…と言われる。
そんなこんなで、「俺らがやらねば誰がやる!」という感じで、必然的に日本陸軍が、上陸用舟艇などの開発を行う必要があった。

ちなみに、陸軍が海軍とは別に、「独自の船舶部隊」を保有する事は、当時のアメリカ陸軍でも行われていた。
現代でも、アメリカ陸軍は、大規模な船舶部隊を海軍とは別に保有し、「ラニーミード級汎用揚陸艇」などを運用している。

あきつ丸完成

完成した「神州丸」は、日中戦争の上陸戦・輸送任務で、その能力を発揮し活躍。
この「神州丸」の成功により、陸軍は「もっと作ろうぜッ」というテンションになり、「特種船(揚陸艦)」の増産を計画した。
しかし
予算の制約により、大量の特種船を陸軍省保有船として維持する事は難しかった。
このため、陸軍は戦時での徴用を前提として、民間海運会社に補助金を出し、建前上とはいえ、「特種船を民間籍の商船」として建造することにした。
こうして…「あきつ丸」が、太平洋戦争中の1942年(昭和17年)1月30日に竣工した。

特徴であります

あきつ丸の特徴は、船内に広い舟艇格納庫を設けている事で、ここに大量の上陸艇を搭載していた。
そして船尾には門扉があり、ここから滑走台を通して、上陸艇を発進させる事ができた。
あきつ丸1隻で、兵士約1,000名、1個大隊が上陸可能

また、上部には飛行甲板と格納庫があり、上陸支援用の航空機を搭載、発艦させられるようになっていた。
この為、「陸軍空母」とも呼ばれたりもする。
甲板後部には、デリック(クレーン)と船幅いっぱいのエレベーターが鎮座。
着艦用の設備は無いので、発艦した機体は、味方の勢力圏や占領した飛行場などに着陸するしかなかった。
それらが確保出来ない場合は、機体を捨てて脱出するハメになる。

蘭印作戦

そんなこんなで…「あきつ丸」および「神州丸」は、南方資源確保のため、1942年1月11日より始められた「蘭印作戦(オランダ領インドネシア)」に動員。
最終目標は、オランダ軍・イギリス軍・オーストラリア軍・アメリカ軍の連合軍約8万強が、守備するジャワ島の制圧だった。
当時…東南アジアのほぼ全域を掌握していた日本軍にとって、このジャワ島上陸作戦は、南方作戦の総決算でもあった。
同時に、100隻弱の船団を使用する南方作戦最大規模の上陸作戦だった。
2月18日、西部ジャワ島上陸部隊である「神州丸」は「あきつ丸」などとともに、総計56隻の大船団を編成し、ベトナムのカムラン湾を出港。
27日、日本軍上陸を阻止すべく出撃した連合軍艦隊と、日本海軍第3艦隊との間で数日に渡り「スラバヤ沖海戦」が発生。
3月1日0時、ジャワ島のメラク湾に入った「あきつ丸」の船団は揚陸作業を開始。
0時30頃には、第1次上陸部隊がジャワ島に無血上陸。
第2師団を筆頭に、各上陸部隊は快進撃を続け、5日には首都バタビアを占領し、7日には要衝バンドンに進出。
今村中将以下第16軍は、3月10日にバンドンに入城し、蘭印作戦は日本軍の完勝に終わった。

お前が護衛空母になるんだよ!

ジャワ島上陸作戦後…「あきつ丸」は、その優秀な積載・揚陸能力を生かし、他の特種船と共に輸送任務に就いた。
特筆すべき点として、連日空襲を受けるため、海軍の空母機動部隊でさえ入港しなかった「要衝ラバウル」へ、3回も入港している事が挙げられる。
時は流れて…太平洋戦争中期、アメリカ潜水艦の通商破壊作戦によって、日本の輸送船被害が激増。
これを受けて、日本軍は、オートジャイロである「カ号観測機」を、対潜水艦哨戒機として使用する事を決定。
そして「あきつ丸を護衛空母に改造して、カ号観測機も載せようぜ!」ということになった。
しかし…量産体制が整わなかった上に、「三式指揮連絡機」の方が即戦力として有益だとして、カ号の搭載は見送られた。

1944年4月、あきつ丸は日本に戻り、着艦制動装置や対潜用の迫撃砲などが設置され、護衛空母に改造された。
そして、8月7日より…対馬海峡・朝鮮海峡において「あきつ丸」が対潜哨戒任務を開始。
ところがである!
当時の日本海に、アメリカ潜水艦は侵入していなかったため、対潜水艦戦は起こらなかった。

あきつ丸の最期

そんなあきつ丸ちゃんに、1944年10月に勃発した「フィリピン防衛戦」のために、陸軍第23師団を緊急輸送する任務が与えられた。
この軍隊輸送任務は、「あきつ丸」のほか「神州丸」・「摩耶山丸」・「吉備津丸」の各特種船が受け持った。
これらルソン島行き特種船団は、シンガポール行きタンカー船団とともに「ヒ81船団」を編成。
ヒ81船団は、優秀!な特種船と高速タンカーが主体となり、護衛には海軍の「空母・神鷹」、「駆逐艦・樫」、海防艦7隻が就く、当時の日本軍としては、豪華な編制だった。

11月14日の午前6時、ヒ81船団は、佐賀県と長崎県に跨る伊万里湾を出港。
目視が可能な昼間には、「空母・神鷹」の九七艦攻2機が、常時飛行し哨戒。
また、護衛各艦と「あきつ丸」・「神州丸」は、水中聴音機を使用し、敵潜水艦の接近を警戒。
だが、「あきつ丸」の水中聴音器は故障しがちで、被雷した時には目視監視だったという。
15日正午頃、五島列島沖において…
護衛艦艇および「神鷹」の哨戒の隙を突き、アメリカ「潜水艦クイーンフィッシュ」の発射した2本の魚雷が、「あきつ丸」の左舷船尾に命中。
後部弾薬庫に誘爆、船尾楼部分が吹き飛び、船体の後部1/3は沈下。
急速に左に傾斜し始めた「あきつ丸」は、ボイラーが爆発。
船橋付近では火災も発生、舟艇ドックにも浸水して転覆…その後、沈没した。



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